辺境の地を護る結界管理を担う国家魔導師は、有事に備えてその地から必要外に離れることはできない。マリスもその任を受けてシード領へ戻って以来、一度も領を出たことは無かった。
万が一、不在時に結界が崩壊でもしたら、領内の至る所で大量の魔獣が発生し、領民が危険に晒されてしまう恐れがある。
大陸の中で領全体を覆う規模の結界を有しているのは、最東のここシードと、最北のグリージスの二つだけ。これらの領地の地中深くには瘴気が渦巻き、こうしている今も地の奥深い所ではフツフツと発生し続けているはずだ。
シードとグリージスにある結界は、ただ外敵から領を護る為だけではなく、その瘴気の噴出を抑え込む役割がある。瘴気は獰猛な魔獣を生み出し、人々の生活を脅かす危険性を秘めている。
勿論、二つの辺境地以外にも瘴気の発生源は無数に存在する。サズドールの森や、イールスの海などでも魔獣はいくらでも生息しているが、決して人間が太刀打ちできないという規模ではない。瘴気の濃度はシード領の地中のそれとは比べ物にならない程度に薄く、生まれ出る魔獣もそれほど強い種はいないからだ。
つまり、結界が崩壊して瘴気の抑止が効かなくなった時、この大陸は無限に生み出される脅威的な強さを持つ魔獣によって、滅ぼされてしまう可能性があると言える。
――古の大魔導師が結界を施す前時代のことを、死神の統べる時代と呼ばれるくらいだ。
「姉さまの婚礼は、そろそろ始まる頃かしら?」
「本日はご参列できず、残念でございましたね……」
「仕方ないわ、領を出る訳にはいかないものね」
ホールのソファーでお茶の入ったカップへと息を吹きかけながら、マリスは向かいに腰掛けるリンダへ悲し気に眉を寄せて見せる。
今日は姉コーネリアと、その婚約者ジルドの婚礼が執り行われる日。嫁ぎ先であるバーサス領での式に参列することができないマリスは、壁掛けの時計を見上げながら、こうして侍女長を相手にお茶を飲んでいた。
「姉さまのことだから、何だかんだと理由を付けてエッタに会いに戻ってくるだろうし、お祝いはその時にすればいいわ」
ジルドも一緒に夫婦揃って猫を愛でに来そうだと、マリスは可笑しげに笑う。本邸での二人の猫への溺愛ぶりはそっくりで、とても微笑ましかった。
穏やかな表情を浮かべてソファーで寛ぐ主を、元乳母は目を細めて見つめる。先日の本邸での食事会には三女付きの侍女として伴っていたリンダは、会場の準備に追われていたせいで、マリス達母娘の庭園でのやり取りのことを見てはいない。
けれど、彼女ら親子の間にそびえ立っていた高い壁が消え去り、マリスがずっと捕らわれていた焦りからようやく解放されているのは分かった。
乳母だったリンダがどれほど囁き続けても、決して癒されることが無かった心の傷跡は、実母であるローサの涙ながらの抱擁には叶わなかった。
ずっと秘められていた母の想いに気付くことができた影響だろうか、屋敷に住む赤子達への接し方へも随分と変化がみられるようになった。これまではどことなく距離を置いていて、何かのついででもなければほとんど様子を見に入ることが無かった子供部屋にも、メリッサ達の話しによれば一日に何度もマリスが顔を見せるようになったという。
「そう言えば、マローネ様も随分と動かれるようになりましたね。寝返りもお上手で」
「そう、赤子の成長なんてあっと言う間とは聞いていたけど、本当だったわ。ギルバートなんて、一人で座れるようになってるんだから」
ふら付きながらも得意げな顔でベッドに座るギルバートはとても表情も豊かになった。母であるメリッサがあやせば、声を出して笑うこともあるし、泣き声もさらに大きくなった。その男児とは三月ほど違うだけのマローネも、ベビーベッドの上で自由自在に寝返りを打ち、乳母が目を離した隙に真逆の方向を向いて寝ころんでいることも珍しくはない。
月齢の一番小さなユリアは、この屋敷に連れられてきた時よりも随分と肉付きが良くなっている。母であるエバは学舎で教鞭を振っている間はメリッサに娘を預け、屋敷に戻って来た後は自分に宛がわれた客室で親子の時間を過ごすようにしていた。いずれは教師の給金を使って母子二人で住める部屋を探すつもりのようだが、つい先日の狩人による襲撃事件もあるから、エバらが屋敷を出るのはまだ先になりそうだ。
すっかり冷めてしまったお茶を淹れ換えようとリンダが立ち上がる。そして、マリスが傍らに置いていた書籍に手を伸ばしかけた時、門番から来客の通達が入った。その日は何の訪問予定も入っておらず、先触れすら受け取ってはいない。
「トルサスのマフォックス商会と名乗る者が、マリス様にお目通りを、と――」
「マフォックス商会? 初めて聞く商会名ね。商品の取引は本邸を通してって伝えてくれる?」
ここ領主家別邸では、必要な物品は付き合いのある老舗の商会から買い求めるのがほとんど。たまに一見の商会が取引を求めて訪れてくることはあるが、普段ならばそういったものは門番の時点で断っているはずだった。
「いえ、それが……商取引とかではなくて、マローネ様に関するお話したいことがあるとか申しておりまして――」
「マローネに関する、って?」
「はい。実際にはマローネ様のお名前は知らぬようでしたが、こちらに預けられている守護獣付の赤子の件で、どうしてもマリス様にお会いしたいと」
ここシード領の北に広がるトルサス領は四方を他の領地に囲まれ、海に面してはいないが大きな湖を携えた領だ。湖水地方ならではの豊かな水源と、穏やかな気候でリゾート地として観光業が盛んでもある。
そこを拠点とする商会となると、淡水魚などの食材は勿論、水資源を活かした染物などが主な取扱い商品だと予測できる。
――そのトルサスの商人が、マローネと何の関係があると言うの?
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