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#御曹司
うめぼっち

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鷹槻れん/鷹槻うなの

36,051
#白い結婚
夕凪ゆな
373
うめぼっち

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「坊ちゃまは、あの時、何もおっしゃいませんでした」
芘沢は、仏間の花を替えながら言った。
一月の朝、五時前。ことはは、もう一度聞いた。五年前のこと。十二月に聞いて、答えてもらえなかったこと。芘沢は、花を一本ずつ花瓶に立てながら、長く黙った。
「大晦日に、ことはさんが坊ちゃまを看ていらしたと、坊ちゃまから伺いました。坊ちゃまが、人のことをわたくしに話すのは、珍しいことです。――ですから、一つだけ」
花を立てる手が、止まった。
「何も、おっしゃいませんでした。ただ――」
花を立てる手が、止まった。
「毎朝通っていらした店が、一軒、なくなりました」
ことはは、戸口に立っていた。
毎朝、通っていた店。
洋菓子屋。店の娘。五年前。毎朝通って、それがなくなった。
「毎朝……通って」
「それだけです。わたくしが申し上げられるのは」
芘沢は、花瓶を遺影の前に戻した。遺影の前の皿は、今朝は空だった。
ことはは、廊下を歩いた。歩きながら、頭の中で、二つのものが重なった。
毎朝通っていた店が、なくなった。
毎朝、柳町に来る、帽子の常連。
妻は、夫に恋をしないこと。
わたしが恋をすれば、本家に知られる。知られた店は、なくなる。恋をされた店が、なくなったように。恋をしなければ、店は残る。第七条は、柊屋のための条文だ。そう読むと、全部が一本の線になった。遼が、何も言わない理由も。宇野に聞けと言う理由も。店に手を出せない、と言った声も。契約だ、と言った声も。
線になって、ことはは、立ち止まった。
一本になった線は、きれいだった。きれいすぎて、少し怖かった。全部が一本になるとき、どこかで一つ、見落としている。父が、餡の味を見るときに言うことだった。全部がそろったときほど、塩を疑え。
疑う前に、朝が来た。
店を守る。それは、ことはの仕事だった。第七条を守ることが、店を守ることなら。
守る。
その朝、ことはは、遼と顔を合わせずに家を出た。
◇
夜、食堂。
遼が、八時に帰ってきた。食卓に、ことはの分の夕食。向かいの席に、遼の分。芘沢が、冬至のあとから、二人分を置くようになっていた。遼は、座ることもあれば、座らないこともあった。
今夜、遼は座った。
ことはは、座らなかった。
立ったまま、台所から茶を運んで、遼の前に置いた。置いて、自分の分を持って、立ったまま飲んだ。
「座れ」
「……店で、立ち通しだったので。座ると、動けなくなります」
嘘だった。嘘が下手だと言われた嘘を、もう一度ついた。
遼は、ことはを見た。見て、箸を置いた。
「手を出せ」
「……え」
「右手だ」
ことはは、湯呞みを置いた。右手を、出さなかった。出さないでいると、遼が、立ち上がった。
立ち上がって、ことはの手首を取った。
右手。荒れた手。指の付け根が、割れている。十二月の軟膏は、使っていた。使っていても、正月の二百で、手は荒れた。
遼は、机の上の小さな箱を取った。軟膏。遼が買って帰ったものと、同じ箱。いつからそこにあったのか、ことはは気づいていなかった。
蓋を開けて、指に取って、ことはの手の甲に、塗った。
自分の指で。
ことはは、手を引けなかった。手首が、遼の手の中にあった。
「商売道具だと、言ったはずだ」
遼は、手の甲を見たまま言った。
「……自分で、塗ります」
「塗っていない」
「塗っています」
「足りていない」
指が、割れたところを避けて、周りに薬を置いていく。丁寧だった。餡を練る手ではない。けれど、丁寧だった。
ことはは、遼の手を見ていた。見ていて、第七条の字が浮かんだ。恋をされれば、店がなくなる。
手を、引いた。
遼の手が、空になった。
「ありがとうございます。あとは、自分で」
遼は、空になった手を見た。見て、何も言わなかった。言わないで、箱の蓋を閉めて、机に置いた。
「……勝手にしろ」
座って、箸を取った。ことはは、立ったまま、茶を飲んだ。手の甲が、薬で光っていた。
◇
次の日の昼、達也が店に来た。
いつもと違う顔だった。腕を組んでいない。両手を、エプロンのポケットに入れて、店先で足を踏み替えている。
「ことは。ちょっと、来い」
店の外。商店街の、少し離れたところ。達也は、声を低くした。
「電話が、あった。昨日」
「誰から」
「知らない女。名前は言わなかった。若い声。――おまえと、二人で写真に写ってくれたら、金を出すって」
ことはは、達也を見た。
「二人で、喫茶店にでも入って、向かい合って座ってるところを、外から撮らせろって。それだけで、十万。顔は、俺だけ分かればいいって」
「……断った」
「当たり前だろ」
達也は、ポケットの中で、手を握った。
「断った。でも、言っとく。おれが断ったら、別のやつに頼むだろ、あの女。おれじゃない誰かと、おまえが二人でいるところを、撮られる」
ことはは、商店街の石の道を見た。
若い女。名前を言わない。金を出す。写真。
ことはが、誰かと二人でいる写真。氷川遼の妻が、別の男と。
「達也。ありがとう」
「礼はいい。気をつけろって話だ」
達也は、八百屋に戻って行った。戻る前に、一度振り返って、言った。
「おまえの旦那、背が高くて黒いコートの、変な男だろ。――ちゃんと、守ってもらえよ」
ことはは、何も言わなかった。言わないで、八百屋の前の、箱の山を見ていた。
コメント
1件
第27話、読ませていただきました。 遼がことはさんの手に軟膏を塗る場面、すごく好きです。「手を出せ」って一言で始まるのに、塗る指がすごく丁寧で。でもことはさんが手を引いて、遼が「勝手にしろ」とだけ言う……その距離感がもう、切なくてたまらなかったです。 第七条の“恋をすれば店がなくなる”という重みが、二人の沈黙の一つひとつに乗っていて、全編に張りつめた空気がありました。 達也からの警告も含めて、じわじわ来る展開に息を止めて読んでいました。続きが気になります。