「粛清?」と出し抜けに大男レモニカが低く響く雄々しい声で物騒なことを言った。
冠鴎の生態について話している時に出てくる言葉ではないはずだ。もちろん冠鴎自身もそんな言葉は発していない。
「どうしたの? レモニカ?」とユカリは少し心配するように眉を寄せて、レモニカの目を見つめる。
「いえ、あの方々の会話が少し聞こえてしまって」そう言ってレモニカが指さしたのは鴎ではなく広場で憩う何の変哲もない奥様方だ。しかし顔を寄せ合ってしかめっ面で、少し興奮した様子で囁き合っている。
「粛清。気になるね。ちょっと話を聞いてみよう」折れた四阿の柱に座っていたユカリは勢いをつけて立ち上がる。レモニカもついて来ようとするので触れないように押しとどめる。「焚書官の姿になっちゃうでしょ」
拗ねた大男を置いて、今度こそ女たちに話しかける。
「すみません。よろしいですか? 少し話しが聞こえてしまって。粛清というのは……」
「見ない方ね。どちらの方?」と足にぐずる子供を引っ付けた女が言う。
「大頭さんにお目通りしたかったんですけど、少し立て込んでいるみたいで」とユカリはぼかして答える。
二人の子供を胸に抱える若くも逞しい女が言う。「きな臭い噂が流れててね。救済機構が粛清するんじゃないかって。ドボルグさんの盗賊団たちに対してね」
「それ自体は珍しくも無いんだがね。今までにもへまして捕まった盗賊たちが何人もいた。粛清というほどでもないが、そういう者らは処刑されたよ」と女たちの中でもとりわけ年老いた女が言った。「だけども今回はパデラ様を信仰する私らまで巻き込まれるんじゃないかって噂になってるんだ。嫌な話だよ」
ぐずる子供をおぶさる女が言う。「あの予言。私らの中にも本気にして高地に逃げた家族もいるんだ。どうやって生活するんだか知らないけど。その話と混ざったんじゃないかねえ」
ユカリが尋ねない内に女たちは次々に噂について語ってくれる。
「いや、そんなあやふやなもんじゃないよ」と別の老女が否定する。「私らのところに救済機構の若い尼僧さんが来て説得していったんだから。粛清が始まるかもしれない。関係ない人も巻き込まれるかもしれないから逃げてくれってね。そう言われてもね。この萎えた足でどこに逃げろってんだか」
いつの間にかユカリの隣にベルニージュとレモニカもやって来た。ベルニージュがユカリの耳元で囁く。
「救済機構と盗賊と旧信仰の諍いに首を突っ込んでも良いことないと思うよ」
ユカリは素直に頷く。「そうだね。でも少なくとも大頭さんに話を聞くまでは無関係でもいられないよ。大頭って呼ばれるくらいだし、盗賊団の上の人でしょ?」
むしろ罪もない人々が粛清に巻き込まれることの方が以ての外だが。
「それはそうだけど」ベルニージュは首を傾げ、曖昧に笑みを浮かべて頷く。「うん。まあ、そうだね。具体的に粛清って何をするのか調べてみようか。ん?」
ベルニージュが耳を澄ますのを見てユカリも注意を払う。冠鴎の鳴き声ではない。どこか遠くで甲高い女の声が何かを喋っている。しかし大きい声には違いないが、叫んでいるような響きでもない。耳の奥に入ってきて喋っているかのような不思議な声だ。
「何でしょう? この声。何か、聞き覚えのある声、ですわね」とレモニカが探り探り言った。
ベルニージュも頷くが、ユカリには分からなかった。
「行ってみよう。お話、ありがとうございました。皆さんもお気をつけて」
ユカリたちは井戸端会議から抜け出して、この閉じられた空間と外を繋ぐ家屋を通り抜け、ユビスを連れて裏通りを大通りの方へ戻る。
その間もずっと女の不思議な声が響いていて、裏通りを抜けるとその内容が聞き取れた。
「ウィルカミドの街の皆さん。特にパデラに信仰を捧げる敬虔なる皆さん。どうか私の忠告に耳を傾けてくださいませ。既にお聞き及びの方もおられるでしょう。救済機構が盗賊団関係者に対して粛清を行うという話、それは真実です。それはとても大規模で、低地全域で行われ、無実の方が巻き込まれる可能性もあります。どうかご避難ください。お願いします」
まさに先ほど噂をしていた内容だ。ユカリたちは声の聞こえる方へと急ぐ。
「こんなことを言いふらして救済機構は咎めないのかな」とユカリ。
「実際咎めてないですわ。粛清など嘘ということになりませんか?」とレモニカ。
「そう思わせて盗賊たちが逃げないように、わざと咎めないのかも」とベルニージュ。
やって来たのは先ほどの広場だった。まさに救済機構の寺院の前で堂々と演説を行っている。
「モディーハンナですわ!」とレモニカが声をあげた。
「え? 誰?」と言ってユカリは演説をする女に目を凝らす。
ユカリには見覚えがない。三人はその演説に耳を傾けている十数人に加わる。
海と空を混ぜたような深く濃い瞳の女がちょっとした傾斜の上に立っている。まるで子供たちに語り掛けるような優しい囁くような音色で話す声が、確かな魔術によって拡張増幅している。少なくとも広場全域にその声は届いているようだ。
豊富な栗色の髪は上品に巻いていて、身に纏うのはシグニカ人らしい狐の重ね毛皮の衣だが、全く縫い目や継ぎ目が見当たらず、まるで今水浴びしていたところを獲ってきたかのように活き活きとしている高級そうな仕立てだ。
「秘密の礼拝堂についても救済機構は感知しています」とモディーハンナが言うと聴衆が少なからずどよめく。「今まではシグニカ各地の異教徒も取るに足りないものと見逃されていただけです。しかし此度の盗賊団への粛清は苛烈で徹底的で、そして無慈悲でありながら、しかし厳密なものにはなりません。我らの隣人たる異教徒を直接の標的としたものではありませんが、異教徒が犠牲になったところで機構に顧みられることはないでしょう。高地か、あるいはシグニカの外へ。あるいはシグニカ南部、フォルビア行政区やヒニカ行政区でもまだましでしょう。盗賊団はシグニカ全土に根を張っていますが、特に北部に大きな勢力を持っている。そのことを救済機構はきちんと把握しています。だから逃げてください。逃げるほかありません」
それらの繰り返しだった。救済機構の寺院前広場の大胆な演説を僧侶たちは遠巻きに眺めている。
「どういう状況? モディーハンナさんはどういう立場なの?」とユカリはレモニカに尋ねる。「というかどこで知り合った人なの?」
レモニカは声を潜めて答える。「わたくしたちが海の上に閉じ込められていた時ですわ。元人攫いで、今は改心している、そうです。大仕事について聞き及んで古なじみのドボルグさんを説得しに来たと仰ってました」
ユカリはモディーハンナを見上げる。「でも大仕事は実行された。だから粛清が行われる、と。初めから粛清されうると予想していたってことかな」
「そうかもしれませんわね」と言ってレモニカは小さく頷く。「であれば粛清の話にも真実味が増してきますわ」
「どうしよう、ベル」とユカリは助けを乞う。
「どうしようったって。どうしようもないよ」とベルニージュは困った風に答える。「本当に粛清が起きるなら、その時にワタシたちがここにいるなら、迎え撃つしかない。ウィルカミドの街の人たちを逃げるように促すとか安全な所へ導くとかするのに、余所者のワタシたちではやっぱり説得力が足りないからね。無理やり連れて行くわけにもいかないし」
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