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祈りと寿ぎに満たされる平時には僧服の衣擦れと松明の爆ぜる音で興を添える静謐な聖火の伽藍が、牙を引っこ抜かれて狂った竜に襲撃されたかのように慌ただしい。シャリューレの手によって氷漬けになった僧兵たちは悲鳴の一つもあげられなかったが、既に脱獄は伽藍中に広く伝わってしまったらしい。
屈強な僧兵たちの恨めし気に凍り付いた苦悶の表情から逃れるように、シャリューレとヘルヌスは正門のある方角へ、伽藍内部を進む。冬の湖面のように固く冷たい石の床に明り取りの薄明が規則的に並んでいる。あちらこちらから不躾で品のない騒々しい足音が聞こえ、未だ来たらぬ救いの乙女に祈りを捧げる場に相応しい静謐さが破られる。
行く手に現れた信心深い僧兵たちに怒声を浴びせられる前に真珠の刀剣の鈍く艶めく刃で次々に叩き伏せ、泥のように滲みだす苦鳴を掻き分けて二人は道を切り開く。
突然、行く先から短く発する濁った悲鳴が聞こえた。僧兵たちを踏み越えた先、固く閉じられた正門を臨む正面の天井の高い講堂に争いがあった。
一方は隊伍を組んだ僧兵たちで、もう一方は盗賊団の頭ドボルグとジェスランだった。僧兵たちに取り囲まれている。
僧兵たちはすぐにシャリューレたちに気づき、挟み撃ちにされたのだと思ったのか脇に退き、四人は大きく取り囲まれる。
「まさか俺たちのことを助けに来てくれたの? シグニカ人にしては良いところあるね」とヘルヌスが馬鹿々々しいことを言う。
「そんなわけねえだろうが、青二才め。こっちにはこっちの目的があるんだよ」とドボルグが吐き捨てるように言った。
「魔導書ならばもうここにはないぞ。全て魔法少女が持って行ってしまったからな」とシャリューレは淡々と告げる。
「そんなものはいらねえんだよ。初めからな。わかんねえか? 大仕事には乗っかっただけなのさ。俺が欲しいのは女神の偶像だ」とドボルグは言って僧侶たちの反応をうかがう。「見てねえか? 像の下半身だけが持ち去られたんだ。ここにあるはずだが」
「上で見たな」シャリューレは功を焦って突出した僧兵を軽々と叩きのめしつつ言う。「聖女の玉座の背後に据えられていた。持ち出せる大きさではなかったが、どうしてそんなものを?」
「てめえに答える義理はねえな」とドボルグは僧兵たちを睨みつけたまま言う。
「まあいい。で、貴様は何をしているんだ、ジェスラン」シャリューレは凍てつくさんばかりの冷たい眼差しをジェスランに向ける。「魔導書が手に入らなかったのなら、ここに残る理由はないと思うが」
ジェスランはへらへらとした笑みを浮かべて大袈裟に驚いてみせる。
「おお、怖い。元師匠に向ける言葉じゃないね。おじさんだって義理深いところはあるんだよ。魔法少女たちによって盗賊の隠れ家の地下室に閉じ込められてたんだけどね。ドボルグに助けられたのさ。だから彼の目的を手助けしてあげようって思ってね。いいだろ? 別に、君に敵対するわけじゃないし」
「敵対しても構わんが」とシャリューレはため息をついて無関心に呟く。
「はいはい。注目!」とシャリューレたちを囲む僧兵の群れの向こうで声をあげたのは聖女アルメノンだった。「朝っぱらから何してんだよ、もう」
レモニカに似た聖女アルメノンが僧兵を掻き分けてやってくる。チェスタの姿はない。
「わあ、シャリューレがもう脱獄してるよ。どうなってんだ、ここの警備体制は」アルメノンが僧兵たちを眺めると僧兵たちは委縮して腰が引ける。「まあ、いい。そんなことはどうでもいい。ワタシは懐が広いし、今はもっと重要なことがあるんだ。柱無くして屋根葺けずってね。さあ、この中にエーミの行方を知る者はいるか?」
僧兵たちもシャリューレたちも困惑した様子を見せ、誰一人答えなかった。
「誰です? エーミ?」とヘルヌスが戸惑いながら呟く。
「護女だよ、護女。誰だか知らないけどそんなことも知らないのか、君は。まあ、知るはずないか」アルメノンが呆れたようにため息をついて言う。「でもシャリューレは知ってるでしょ? 護女エーミ。君が聖女の伽藍から連れ出したって情報は得てる。言い逃れはできないぞ。嘘は真実の在り処を示すんだ」
どうやらネドマリアに託したことは知られていないらしい。ならばすでに二人はジンテラ市を脱し、高地伝いに逃げていることだろう。
「今頃何処にいるかは知らんが、我が妹ネドマリアの手によって脱出した」とシャリューレは話す。
「ふうん。まったくあの不良護女は……。って、ジェスランじゃん!?」アルメノンは指をさして驚く。「ずっと姿を見てないと思ったら、なんだよ、ちゃんと天罰官してたんだね? だよね? で? そっちとそっちはどこの誰? 君、何でそっち側にいるの?」
ジェスランは剣を構えたまま正直に答える。「ええ、そうですね。こちらの若い男はシャリューレの部下でヘルヌスといいます。こちらの大男はドボルグ。盗賊団の長ですね。少し恩義がありまして、手助けしている次第です」
「なるほどね」アルメノンはうんうんと頷く。「つまりそいつらが今回の盗賊たちの襲撃の黒幕ってわけだ。じゃあ殺せよ」
ジェスランの剣が閃き、ドボルグを切り伏せ、二の太刀がシャリューレに向かうがリンガ・ミルに易々と弾かれる。
「嘘だろ」とヘルヌス。「ここまで来て元の鞘に戻れるのかよ」
それはアルメノンに尋ねているようでもあった。
「もちろんだよ。ヘルヌス君」とアルメノンは当然の如く肯ずる。「ジェスランは反省しているし、手切れしたことを証明してみせたんだからね。ワタシは許すよ。なんせ、ほら、懐が広いもんだからさ。剥き身の刃も収まっちゃうんだ。全ては、この通り、終わったことなんだからさ」
ジェスランがドボルグの血溜まりを踏み越えて、聖女アルメノンを守る騎士の如く、シャリューレたちに立ちはだかる。ドボルグは呻き声も漏らさず、既にこと切れている。
「さあさあ、まずは天罰官のお仕事を見てみようじゃない。ああ、みんな天罰官を知らないのか」アルメノンは僧兵たちを見渡して言う。「まあ、とにかく見てなよ。ワタシが見込んだ凄腕の剣士で、その上……あれ? 聖剣はどうしたの? そんなんじゃなかったよね。もっと、こう、幅広の……」
「すみません。魔法少女に壊されてしまいまして」ジェスランは片刃の剣を構えて、片時もシャリューレから目を離さずに言う。
「ええ? もっと大事にしてよ。あれはそう簡単に用意できるものじゃないんだからな。ワタシ知らないからね。その何の変哲もないつまんない剣で頑張りなよ」
「シャリューレさん、俺は……」と背後のヘルヌスが囁く。
「この短期間でジェスランより強くなったのでなければ身を守ることに専念していろ。ここから脱出するのが先決だ」とシャリューレは答える。
剣を構え、飛び掛かるジェスランに右手をかざす。再び氷の剣を生成しようとするが放たれた冷気は広範囲の僧兵を瞬く暇もなく氷漬けにしてしまった。ただしジェスランは咄嗟に避けてみせ、背後にいたアルメノンは燃え盛る炎に包まれてアルメノンの魔術を相殺した。
「後ろにワタシがいるのに何を平気で回避してんだよ、ジェスラン」とアルメノンが苛立たしげに言う。「というか何でシャリューレが人造魔導書を持ってるのさ」
魔の剣リンガ・ミルが迫りくるジェスランの凶刃を弾くが、続けて幾度も激しくシャリューレを打ち据える。間合いの狭いリンガ・ミルは防戦一方だがシャリューレの身のこなしは最低限に抑えられ、一方ジェスランの体捌きは速い律動に舞う踊り子の如く激しい。
上段からの振り下ろしは雷の如く激しく、横薙ぎは這い寄る影の如く音もなく鋭い。踏み込みからの突きは蛇の如く狡猾に執拗にシャリューレの心臓に飛び掛かる。
「あいかわらず心臓狙いがあからさまだな」とシャリューレは繰り返し繰り出される致命の一撃をいなしながらも息一つ乱さずに呟く。
シャリューレが幼いころにジェスランに教わった剣の技は特別優れたものではなかった。例えるならば芯のない粗にして野の牙、滅法堅いが研ぐには柔い。しかるに巧みになれども究めるには浅く、しかしシャリューレは天与の才覚と無比の膂力をもってして人喰い鮫の如く敵を切り裂いてきた。
「そう言う君は変わったね」とジェスランが寂しげに笑みを浮かべる。「いつだって急所を狙うように教えたのに。甘くなったもんだ」
「私が急所を狙うべきほどの敵にはついぞ出会えていない」とシャリューレは感慨もなく呟く。「どこを斬っても人は死ぬ」
繰り出される片刃をシャリューレは紙一重で躱し、身の捻りと共にリンガ・ミルを繰り出し、逆袈裟に振り上げる。
しかし突然まるで己の体が自分のものではないかのような錯覚を覚え、その隙を捉えたジェスランに真珠の刀剣リンガ・ミルを叩き落とされた。
次の一瞬、リンガ・ミルの剣が弾け飛ぶように、しかし実際のところ、真珠剣そのものは無傷のまま何かが飛び出してきた。
シャリューレの鋭い目が捉えたそれは三枚の古びた羊皮紙だった。羊皮紙はまるで風に吹かれたように舞い飛び、一枚はジェスランの剣に巻き付いて消え、もう一枚はヘルヌスに貸しているシャリューレの剣に、そして最後の一枚はアルメノンの懐へ吸い込まれていった。
「わあ! 何々? びっくりした。魔導書?」そう言ってアルメノンが懐から取り出したのは護身用らしき短剣だ。「へえ、こりゃ良いね。幸先が向いてきた」
全ての羊皮紙が剣に憑依した。つまり真珠の刀剣リンガ・ミルに三つの魔導書が憑依していたのだった。
ほとんど同時に大きく床が揺れる。地響きが鳴り、大気が震える。天井から埃が舞い散り、建築を支持すべき柱が軋む。地の底に潜む獣が吠えたような伽藍の鳴動に慌てふためく僧侶たちを尻目にシャリューレは発する。
「行くぞ! ヘルヌス!」
二人は立ちはだかりもできない僧兵たちを薙ぎ払い、門へと走る。