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ルシンダとユージーンの意識は水の中を揺蕩うように漂っていた。時折、国王の記憶の断片が流れて弾け、二人の前で国王が過ごしたさまざまな場面が蘇る。
初めに見えたのは、勉学や剣術に励む幼少期の姿だった。それから十歳、十三歳と成長の過程を見送り、やがて王太子となった十七歳の頃になった。
自室で税法について学んでいると、ノックの音が聞こえてきた。
『王太子殿下、参考文献をお持ちいたしました』
『ナディアか。入ってくれ』
ナディアと呼ばれた侍女が入室する。美しい黒髪と、知性と妖艶さが感じられる紅い瞳が印象的だ。
(お兄ちゃんと同じ色だわ──)
ナディアは王太子の机に文献を置くと、お辞儀をして踵を返す。しかし、退室しようとドアノブに手を掛けたところで、動きを封じられてしまった。
王太子が、背後からナディアを抱き止めたのだった。
『まだ行かないでくれ、ナディア』
『エドワード様……ですが、誰かに見られたら……』
『人払いしてあるから誰も来ない。お願いだ、もっとこうしていたい』
『……はい、私もです』
王太子エドワードと、侍女ナディア。
しかし、この二人きりの部屋での関係は、王太子と侍女ではなく、互いに想いを寄せ合う恋人同士でしかなかった。
それからまた、ルシンダとユージーンの目の前に次々と別の記憶が映し出されていく。
季節がふた巡りする間、エドワードとナディアはさらに仲を深めていった。エドワードは賢く美しいナディアに恋焦がれ、今すぐには無理でも、必ず彼女を妃に迎えようと心に決めていた。
しかし、また少し時が流れ、別の記憶が映し出されると、エドワードとナディアは悲痛な表情を浮かべていた。
『……私の政略結婚が決まった。公爵家の令嬢だそうだ』
『公爵家の……ということは、オリヴィア様でいらっしゃいますね』
『ああ……。父王の病状が思わしくなく、彼女との婚姻をもって私に国王の座を譲られるそうだ』
『それは──……おめでとうございます』
『めでたくなどない! 私の妃は君でなくては……!』
エドワードが思わず声を荒らげた瞬間、ナディアが立ちくらみを起こして地面にしゃがみ込んだ。そのまま吐き気を抑えるかのように口元に手を当てる。
エドワードが、まさか、と呟いてナディアの背中を抱く。
『ナディア……もしや君のお腹には──』
エドワードの問いに、ナディアが小さくうなずく。
『……はい、あなたの御子を身籠りました』
か細い声でそう答えた後、ナディアは一筋の涙をこぼした。
『ですが、オリヴィア様とご結婚なさるのでしたら、この子は堕ろさなくてはなりません』
ナディアは貴族ではあるが男爵家の娘。エドワードが公爵令嬢と正式に婚姻を結ぶとなれば、今お腹の中にいる子は存在してはならない。
しかし──。
『ナディア、お願いだ。その子を産んでくれ』
エドワードがナディアを抱きしめ、懇願する。
『誰が何と言おうと、君もこの子も、私が必ず守るから……!』
『エドワード様……』
ルシンダとユージーンの視界から二人の姿が遠のき、また別の場面が流れてくる。
陰鬱な表情をした女が、目の前のエドワードに恨めしそうな視線をぶつける。
『王太子殿下にお願い申し上げます。あの娘とお別れください。辺境の地で暮らすよう命じ、二度とお会いにならないでください』
エドワードは、女の射抜くような眼差しを真正面から受け止める。
『それはできない』
ナディアは誰よりも大切な存在だ。しかも彼女は今、自分の子を身籠もっている。遠くの地に追いやったりする訳がない。
しかし、エドワードと同様に、女のほうも一歩も引く様子はなかった。
『わたくしは知っています! あの娘は殿下の子を孕んでいるのでしょう!? そのような子など、この世に生まれるべきではありません!』
女がエドワードに掴みかかる。しかし、すぐに近衛騎士に引きはがされた。
エドワードが襟を直しながら近衛騎士に命じる。
『……連れていけ。だが、未来の王妃の乳母だ。手荒な真似はするな』
近衛騎士に引きずられていく女の喚き声が聞こえる。
『殿下の御子を産むのは、オリヴィアお嬢様だけであるべきです! わたくしは絶対に認めません! もしあの娘が子を産んだら、私がこの手で殺します!』
その後、未来の王妃オリヴィアの乳母は、王太子エドワードの命により故郷に帰らされることになったのだった。
(──ああ、また別の記憶だわ。今度は一体……)
ルシンダとユージーンの目の前で、エドワードがどこか落ち着かない表情を浮かべながら、廊下を行ったり来たりしている。
『どうか……神よ……』
立ち止まって神に祈りを捧げていると、すぐ目の前の部屋から慌ただしい声が聞こえてきた。
『まずい、出血が止まらない……』
『誰か、陛下をお呼びしろ!』
異変を察したエドワードがすぐさま駆け出して部屋の扉を開ける。と、同時に、元気な赤子の声が響き渡った。
『生まれたのか……!? ナディア!』
辛そうに息を吐くナディアにエドワードが駆け寄ると、医師が生まれたばかりの小さな赤子を差し出した。
『陛下、ナディア様、おめでとうございます。可愛らしい男の子ですよ』
大きな泣き声をあげる我が子の頬に、ナディアがそっと手を触れる。
『ああ、なんて愛おしいの……』
『そうだな、私たちの宝だ』
『……ええ、本当に……生まれてきてくれてありがとう……』
『……ナディア?』
どんどんと血の気を失っていくナディアに、エドワードの顔が恐怖で歪む。
『ナディアの様子が……。おい、早くナディアの手当てを……!』
医師に指示を飛ばし、力無く下ろされたナディアの手を握る。
失われていく体温を、命を引き留めようとするかのように、必死に握りしめるエドワードに、ナディアが残る力を振り絞って微笑む。
『エドワード様……この子を……ユージーンを、よろしくお願いいたします……』
それが、ナディアの最期の言葉だった。
『嘘だ……ナディア、嘘だろう……。私を置いていくなんて……』
とめどなく流れる涙を拭こうともせず、エドワードは膝をついてナディアの亡骸に縋りつく。
しかし、すぐに立ち上がり、赤子を抱く医師に手を伸ばした。
『赤ん坊をこちらへ』
『しかし、お召し物が汚れて──』
『そんなことはどうでもいい。早くユージーンを抱かせてくれ』
『は、はい……!』
胸に抱いた赤子は、何もかもがとても小さくて頼りない。それなのに、泣き声だけは大人よりも大きくて力強かった。
母親を求めるかのように泣き声をあげ続ける我が子の小さくて皺だらけの手を、エドワードは優しく包み込んだ。
『──ナディア、この子は必ず私が守るよ』