「ルシンダ! 大丈夫⁉︎」
ミアが魔道具に向かって叫ぶが、ルシンダからの返事はない。
さっきの轟音といい、ルシンダが何者かに襲われたに違いない。
「みんな! ルシンダが危ないわ!」
「音がしたのは向こうだ! 早く!」
全員で音が聞こえたほうへ駆けつけると、雑木林の入り口でへたり込むルシンダを見つけた。そして、その奥には酷い臭気と濁ったオーラをまとった黒い塊が見える。
「あ、あれは……!」
ミアが驚きの声をあげると、ルシンダが振り返り、嫌悪の表情に涙を浮かべて叫んだ。
「ゴキブリが出た……!!」
確かに黒光りする体といい、二本の長い触覚といい、完全に黒い悪魔の見た目をしている。でも、いくらなんでも巨大すぎる。体長二メートルはありそうな大きさだ。
しかも、全身から放たれるオーラからは、とてつもない魔力を感じる。
虫除けの魔石も、さすがにこのレベルともなると効き目はなかったようだ。
「虫型の魔物か……?」
レイがそう口に出すと、サミュエルが何かに気付いたように呟いた。
「あの虫は……」
「サミュエル、心当たりがあるのか?」
レイが尋ねると、サミュエルはこくりと頷いた。
「この付近で昆虫採集していたときに見かけたと思います。もちろん通常の大きさのものですが……」
「なるほど。魔物化して巨大になったのかもしれない。とにかく、あんなやつが新校舎のほうに行ったら大変だ。ここで食い止めるぞ!」
レイが指示を出すと、全員が互いに間隔を空けて戦闘態勢をとりながら、魔力を練り始めた。
「最大火力で燃やしてやろう」
ライルが手の平から炎を出す。……と、そのとき、ルシンダが叫んだ。
「ライル、だめ! ゴキブリに火は厳禁よ!」
「え?」
ライルが困惑したようにルシンダを見つめると、ユージーンがルシンダの意図を補足した。
「あいつはカサカサとすばしっこいから、燃やした状態で森へ逃げ込まれては大火事になってしまう恐れがある」
ちなみに、前世では家に二回ゴキブリが現れ、妹に泣いて頼まれて二回とも彼が退治している。
「そういうことなら、たしかに炎系の魔術は避けたほうがいいな」
「ひとまず、周りを囲って閉じ込めよう」
レイが巨大な土壁を出して、魔物に箱を被せるかのようにして閉じ込める。
……が、一瞬のうちに食い破られてしまった。
レイが舌打ちすると、魔物から男性の苛立った低い声が聞こえてきた。
「クソッ、この俺が何故こんな虫なんかに…」
そんな風に悪態をつきながら、旧校舎の壁にへばりついたり、上空を飛び回ったり、縦横無尽に暴れ回っている。
すると、サミュエルの顔色が一気に青褪めた。
「あの声……僕の頭の中で聞こえていた声に似ている……」
呆然とするサミュエルの呟きを聞いてミアが確信する。
「やっぱり……。あれは魔王よ! 人間に取り憑くはずが、どういう訳かゴキブリの体に入っちゃったんだわ」
ミアの言葉に全員が驚愕する。
「魔王だって……?」
「封印から目覚めてしまったということですか?」
「たしかに、あの魔力の強さは通常の虫型の魔物ではありえない。慣れない体に戸惑ってもがいているようにも見える」
黒い悪魔は気色悪い触覚をあちこちに向けて旋回し、ルシンダたちのいるほうへ近づいたり遠ざかったりと無軌道な飛行を繰り返している。
もしかすると、まだ虫の体に馴染んでいないせいで上手く制御できないのかもしれない。ただ、それにしても気持ちが悪い。
自分めがけて飛んできた巨大な黒い悪魔に押し潰されるという、最悪におぞましい光景を想像し、ルシンダは戦慄した。そして、頭の中で何かがプツンと切れる音を聞いた。
「魔王なんて、俺たちの力で敵うのか……?」
「チッ、あいつの動きが素早すぎて狙いが定められない!」
「どうすれば……!」
みんなが魔王の登場という異常事態と、その動きの素早さに焦っている中、ルシンダの凛とした声が響いた。
「……アーロン!」
「ルシンダ? どうしました?」
いつものルシンダらしくない鋭い呼び掛けに驚きつつも、アーロンが返事をすると、ルシンダが妙に据わった目で見つめてきた。
「風魔法で渦を作って、あの悪魔を捕らえてください」
「……! やってみます」
言われた通りにアーロンが激しい風の渦を作り出して、上空を飛んでいた魔物を渦の中に捕らえた。
「くっ、逃げ出せん……! 人型であれば、これしきの魔術など簡単に弾き返してやったものを……」
やはり慣れない身体のせいで、実力が十分に発揮できていないらしい。
魔王が焦った様子でもがいている中、ルシンダが次の指示を飛ばす。
「お兄様! 氷魔術で氷結を!」
「分かった」
クリスが狙いを定めて氷結の魔術を発動させると、黒光りする体が見る見るうちに凍りつき、ピクリとも動かなくなった。
「風魔術を解除!」
ルシンダの合図でアーロンが風の渦を止めると、彫像のように固まった黒い悪魔は、太陽の光をきらりと反射しながら、ドスンと大きな音を立てて落下した。
「……ゴキブリなんて、粉々になってしまえ」
ルシンダは低い声でぼそりと呟くと右手を高く掲げ、勢いよく振り下ろす。と同時に、天から幾筋もの雷撃が閃き、漆黒の巨体を貫いた。
「や、やったわ……!」
ミアの声で我に返ったルシンダが辺りを見回すと、バラバラになった黒い悪魔の残骸がそこら中に散らばり、焦げくさい悪臭を放っていた。
(汚い……臭い……気持ち悪い……)
魔王を倒したことよりも、このゴキブリまみれの空間を一刻も早く綺麗にしたいと、ルシンダはその一心だった。
(ゲームだと魔物を倒したら姿が消えるよね……。お願い、このゴキブリも消えて……! 今すぐ消えて……!!)
ルシンダがそう強く願った瞬間、ルシンダを中心に辺りが真っ白な優しい光に包まれた。
そして──。
「……ゴキブリが、消えた……! よかった……!」
やがて光が消えてルシンダが目を開けると、黒い悪魔の残骸も、鼻が曲がるような悪臭も、綺麗に消え去っていた。
みんなともこの喜びを分かち合おうとルシンダが満面の笑みで振り返る。しかし、全員がぽかんとした表情でルシンダを見つめていた。
「今の光は……?」
「聖女の言い伝えに出てくる浄化の輝きに似ていたが、まさか……」
みんなが顔を見合わせて騒めく中、ミアがぽつりと言った。
「ルシンダ、あなた、目覚めてしまったのね──光の魔術に」
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