テラーノベル
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「ふぁ…」
鳥のさえずりで目を覚ます
もう外は明るい
「んぅ”ん」
少し伸びをしてベッドから立ち上がる
「今なんじぃ…」
起きた直後だからまだ目が光を受け付けない
時計がぼやける
「7時かぁ…」
たぶん
寝ぼけまなこのままリビングのある方へ向かう
あれ
洗面所だった
歯磨きしなきゃ
僕の歯ブラシどこだっけ?
あれ?
ない
いつもの黄色のやつ
歯ブラシが見当たらなかったから口をゆすぐだけにした
ついでにトイレも済ましておこうかな
「あれ…ここはぁ…物置?」
あれ?トイレここだったはずなのに
『トイレはこっちだよ』
「うわっ」
だれ?
急に
その人は僕の手を引っ張ってトイレまで連れて行ってくれた
『ここだよ』
「ぁ…ありがとうございます」
あの人が誰かはわからなかったけどとりあえずトイレを済ませることにした
「ふぅ….」
あれ….ここ、ほんとに僕の家?
よく似てるけど部屋の場所も内装も全然ちがう
じゃあ
僕はなんでここにいるの?
あの人はだれ?
急に怖くなってきた
『こっちにおいで』
あちらから声がする
とりあえず声のする方に行ってみよう
『ご飯ができたよ』
『一緒に食べよう』
「ぅ…ぁ、はい」
ほんとに誰なの?この人
逆らうに逆らえないから席に着くけど
「うぇ…これ、食べ物?」
これ食べれるの?
おいしくなさそう
『食べないと…』
おぼつかない手で食べ始める
うぇ…やっぱおいしくない
『あぁ…』
その人は少しだけ眉を下げた
なんでそんな顔をするんだろ
僕、何かしたかなぁ
でも、本当においしくなかった
味がしない
舌がおかしいのかなぁ
それとも、この人の料理が下手なのかな。
わからない
『無理しなくていいよ』
「……」
優しい声
だけど知らない人
優しいのにちょっと怖い
僕は黙ったままスプーンを置いた
その人も何も言わなかった
食事が終わると、僕は部屋の中を歩き回った
知らない家
知らない家具
知らない写真
だけど、どこかで見たことがある
そんな変な感じ
棚の上に写真立てがあった
そこには女の人と男の人が写っていた
女の人は綺麗だった
笑顔が眩しかった
フルートを持っている
ピアノの前でも笑っている
どこかで見た顔
誰だっけ
「ぁ……」
急に頭が痛くなる
視界が揺れた
その時だった
『涼架』
後ろから声がした
涼架
それ、誰?
『涼架、大丈夫?』
「りょ……うか……」
その名前を口にした瞬間
胸の奥が少しだけ痛んだ
僕?
僕が?
涼架?
『そうだよ』
男の人が近づいてくる
僕は反射的に後ろへ下がった
怖い
近づかないで
『ごめん』
男の人は立ち止まった
悲しそうな顔をしていた
それから何日経ったのかわからない
時間の感覚がない
朝と夜の区別も曖昧だった
気付けば転ぶことが増えた
階段が怖い
箸も上手く持てない
言葉も出てこない
伝えたいことがあるのに
言葉だけが消えていく
「えっと……その……あれ……」
何も出てこない
悔しい
涙が出る
『大丈夫』
まただ
あの人
いつもいる
いつも僕を見ている
知らない人
なのに
なぜか離れない
ある日
僕はピアノの前に座っていた
黒くて大きい楽器
指を置く
何も考えていないのに
音が流れた
懐かしい
指が勝手に動いてくれる
そして旋律が生まれる
知らないのに
知っている
すると後ろから息を呑む音が聞こえた
振り返ると
あの人だった
涙を浮かべている
『その曲……』
「?」
『覚えてるんだ……』
何を?
僕は首を傾げた
でも指は止まらない
音楽だけは
身体が覚えていた
夜
眠れなかった
部屋を出ると 暗いリビングにたどり着く
ソファに座る男の人
頭を抱えていた
肩が震えている
泣いているのかなぁ
『……なんで』
小さな声
『なんで俺だけ忘れるんだよ』
僕のことを言っているのかなぁ
わからない
でも胸が痛い
『音楽は覚えてるのに』
男の人は拳を握った
『俺は何なんだよ』
苦しそうだった
その日から
彼は少し変わった。
疲れていた。
眠れていないのかもしれない。
笑わなくなった。
僕が同じ質問を何度もすると。
少しだけ声が強くなる。
『さっきも説明しただろ』
僕はびくっとした。
ごめんなさい。
言いたかった。
でも言葉にならない。
ただ泣いた。
彼も泣きそうな顔をしていた。
そして。
ある雨の日。
事件は起きた。
「あなた……だれ……」
僕は聞いた。
何度目かわからない。
彼の顔が歪んだ。
『……』
沈黙。
『俺は』
震える声。
『俺は滉斗だよ』
知らない名前。
だから首を振った。
『違う』
「しらない……」
その瞬間。
ぱしん。
乾いた音が鳴った。
頬が熱い。
何が起きたかわからなかった。
目の前の人も固まっていた。
自分の手を見つめている。
『あ……』
顔が真っ青になった。
『違う……』
一歩。
また一歩。
後退る。
怖い。
怖い。
怖い。
『ごめん』
その人が崩れ落ちた。
『ごめん……』
泣いていた。
子どもみたいに。
ずっと。
ずっと。
翌日。
その人は僕の前で土下座した。
『本当にごめん』
何を謝っているのかわからない。
でも。
胸が痛かった。
その姿を見るのが。
だから僕はぎこちなく頭を撫でた。
滉斗はさらに泣いた。
冬が来た。
僕の身体はもっと動かなくなった。
歩くのも難しい。
言葉も少なくなった。
だけど音楽だけは残っていた。
最後の灯火みたいに。
ある日の夕方。
窓から橙色の光が差し込んでいた。
いつもの人がギターを抱えている。
僕はピアノの前。
『弾こうか』
その言葉に頷いた。
鍵盤に触れる。
ギターが重なる。
そして始まった。
二人で作った曲らしい。
名前も覚えていない。
でも心が、身体が覚えていた。
音が重なる。
旋律が広がる。
そして。
不意に。
記憶の扉が開いた。
ライブ会場。
歓声。
ステージ。
フルート。
ピアノ。
笑う僕。
隣にはギターを抱えた男の子。
少し不器用で。
少し照れ屋で。
誰より優しい。
告白の日。
結婚式。
一緒に作った曲。
泣きながら抱き合った夜。
全部。
全部。
全部。
思い出した。
「……ひろ、と」
ギターの音が止まった。
滉斗が顔を上げる。
目を見開いている。
「ひろ、と」
震える声。
「ひろと……!」
滉斗の瞳から涙が溢れた。
『涼架……?』
「ごめんね」
声が出た。
久しぶりに。
ちゃんと。
「ずっと……一人にして……ごめんね」
『違う』
滉斗は首を振った。
『違う』
何度も。
何度も。
泣きながら。
『帰ってきてくれてありがとう』
僕も泣いた。
滉斗も泣いた。
二人で作った曲だけが静かに流れていた。
その夜。
久しぶりに二人で話した。
思い出話をした。
未来の話もした。
本当は。
もう未来なんて残されていないと知っていたけれど。
朝。
鳥の声が聞こえた。
目を開く。
滉斗が隣で眠っている。
懐かしい顔。
大好きな人。
世界で一番愛した人。
手を伸ばす。
頬に触れる。
温かい。
よかった。
最後に思い出せて。
本当によかった。
「愛してる」
かすれた声で呟く。
滉斗は目を覚ました。
『俺もだよ』
笑っていた。
泣きながら。
僕も笑った。
それが最後だった。
滉斗が握る手の中で。
涼架の呼吸は少しずつ静かになった。
苦しそうではなかった。
ただ眠るように。
穏やかに。
27年という短い人生を終えた。
「涼架、お疲れ様。」
「よく…頑張りました。」
滉斗は、涼架の頭を優しく撫でながらそう言った。
窓の外では風が吹いていた。
譜面台の上には。
二人で作った曲の楽譜。
最後のページには。
涼架の字でこう書かれていた。
――忘れても、音は残る。
――音が残るなら、きっと愛も消えない。
滉斗は楽譜を胸に抱いた。
そして誰もいなくなったピアノの前で。
ギターを抱えて、
二人の曲を弾き続けた。
淋しくはなかった。
ピアノの前で愛する彼女が、
あのやさしい顔で笑って見守ってくれている気がしたから…
コメント
1件
「最後に思い出せてよかった…って、もう涙が止まらないよ…😭💕」 失語症になってどんどん動けなくなっていく涼架と、必死に記憶を繋ぎ止めようとした滉斗のすれ違いが切なすぎる。「忘れても音は残る」って一文が全てを救ってくれた気がする…27年の人生、本当にお疲れ様でした。