千紘がドア前の電子キーにスマートフォンをかざすと、ガチャリと大袈裟な音を立てて解錠された。
すぐに流れるような動作でドアを開けた千紘。凪が一歩踏み込んだ瞬間、ふわっと爽やかな香りが鼻を抜けた。
玄関からすでに心地良い香りが出迎え、意識の高さが伺えた。
広い玄関は大理石風で、靴は全て靴箱に収納されているのかそこは美しく輝き、余分なものは一切出ていなかった。
その辺の女の家より綺麗だぞ……。
凪はそう思いながら歩みを進めた。女性客の自宅に呼ばれて仕事をすることもあるが、年季の入ったアパートだったり、生活感はあるもの。自宅に呼ぶからにはと、頑張って掃除しましたという感じのする家もあれば、金払ってるしというスタンスでお世辞にも綺麗だとは言い難い家もあった。
女の家は綺麗だという妄想は童貞までだと凪は思う。そんな一定ラインの女性宅よりも、千紘の家は清潔感に満ちていた。
リビングに入れば黒革の大きいソファーが存在感を放ち、普段見る暇があるのか疑問に思う無駄に大画面のテレビや、奥に見えるワインセラーなど高級感たっぷりだった。
凪自身、自宅も拘っている方だがここはまるでモデルハウスだな……とド肝を抜かれた。
「……すげぇ綺麗じゃん。片付けてないって言ってたけど」
思わず唖然としてしまった。あの言い方だと、もう少しだらしのない生活を想像した。
呆気に取られた表情の凪を見て、千紘は困ったように笑った。
「いや、ほんと片付けてないんだって」
「これで? 外観からすげぇって思ってたけど、中はもっとすげぇな」
目を輝かせて部屋中見渡す凪が可愛くて、千紘は嬉しそうにはにかんだ。
「一緒に住む気になった?」
「ならねぇけど、1人なら住みてぇわ」
本音が出た凪に肩をすくめる千紘は、テイクアウトしたピザを高級感のある白いガラステーブルの上に置いた。
「この家にピザとか似合わねぇ」
「凪が食べたいって言ったんじゃん」
「だって1人だとピザなんて食い切れねぇじゃん。こんな時でもないと食う機会ねぇもん」
ケラケラ笑う凪が無邪気だった。千紘は歯を出して笑ってくれることがただただ嬉しかった。
ピザを食べる機会がないのは千紘も同じ。それは、こんなふうに誰かと一緒に家で食事をする機会がないと言っているのと同じこと。
客と外食することはあっても、きっとこんなふうに自宅でピザを食べるような色気のないことなどしないのだろう。
そう思ったら、リビングがピザの匂いで充満してしまうことも悪くないように思えた。
空きっ腹にピザを放り込む。油をコーラで流し込むと口内でシュワシュワと炭酸が弾けた。会話もなく2人は夢中で食べ進め、平らげると満足気に息をついた。
「こんなに飯食ったの久しぶりかも」
凪はうーんと伸びをしながら言う。腕を戻すと油が付いた指を気にしてか、紙ナプキンで拭う。しかし、指先を擦り合わせて指の腹を眺めていた。
「あんまりご飯食べないって言ってたもんね。たまにはちゃんと食べなよ」
「誰かといれば食うんだけどな。客もそのままホテルとか多いし、タイミング逃すと食う暇ないし」
「手、洗う?」
「洗う」
ずっと指先を気にしている様子の凪にそう言うと、千紘は洗面所に案内をした。その間に空になった箱やら紙ナプキンをゴミ袋にまとめた。
綺麗にテーブルの上を拭くと、窓を開けて換気をする。空腹の時にはあんなにもいい香りに思えたが、満たされたらチーズの匂いが鼻についた。
リビングの空間に消臭剤のミストをスプレーし、香りを上書きさせる。普段テイクアウトやコンビニ弁当が多い千紘にとっては慣れた動作だった。
一方凪は丁寧に手を洗っていた。洗面所もピカピカに輝いていて、床には髪の毛1つ落ちていなかった。
女性の家に行けば脱衣所にはドライヤーで乾かした後の毛がいくつも落ちているものだ。千紘の髪も襟足が長く、髪が落ちていれば目立つだろう。
しかしそこは美容師だからか、一連の動作として片付けまでしている想像ができた。
俺の家だって髪の毛くらい落ちてるけどな……。そう思ってるところに千紘がやってきて、洗面所のミラーに手をかける。中は収納になっていて、未開封の歯ブラシを凪に渡した。
それを受け取った凪は、千紘と並んで歯磨きをする。
前回一緒にホテルに行った時と同じような光景で、不思議な気分だった。自宅なのにホテルよりもよっぽど綺麗で高級感がある。
誰が使ったかわからないようなホテルよりもよっぽど居心地が良く思えた。
一緒にピザなんか食べて全くいやらしい気分になどならなかったのに、なぜかこのまま寝室に向かう気がした。
流水を止めて、口元をタオルで拭う。いよいよかも……凪がそう息を飲んだところで、千紘は自然とリビングへと戻って行った。
自分だけが寝室を気にしていたようで急に恥ずかしくなった凪は、千紘の後に続いてリビングへと戻る。
しかし、ぼすっと勢いよく座った凪に対し、千紘は立ったままリビングのテレビをつけた。
「ちょっと待ってて」
そう言い残して千紘は背を向けた。リビングから離れて廊下を進み、別の部屋へと入っていった。
凪はそれを見つめ、あそこは何の部屋かと考える。どうやらドアは4つあるようで、1つは凪と千紘が歯磨きをした洗面所。その奥には浴室があった。
その手前にあったドアを開けた時には、着ていた上着をハンガーに掛けていたから、そこはおそらくウォークインクローゼットだと想像する。
だとしたら、残りは寝室と仕事関係の部屋だろうか。仕事終わりだし明日の準備でもしてるのか。それとも寝室でシーツでも整えているのか。
そう考えたら後者の線が濃厚だった。これだけ綺麗な部屋をしていてもすぐに寝室に入れるのは気が引けるのか。
そう考えたら、その隙をついてみたいと思った。もしかしたら脱ぎ散らかした寝巻きがそのままになってるかもしれないし、アラームで起きられない千紘のことだから、驚くくらいの目覚まし時計がならんでいるかもしれない。
色んな寝室を想像して、千紘が片付けてしまう前に覗いてやろうと凪は口角を上げた。
こっそり足音を立てないように千紘が入って行った部屋に近付く。
中ではゴソゴソと音がする。やはり何かしているのだ。凪は一度息を飲んで、勢いよくドアを開けた。
「……え」
中を覗いた瞬間、凪は間の抜けた声を上げた。そこは確かに寝室だった。 想像通りの黒いシーツに包まれた大きなベッドが真ん中にドンッと置かれている。
シーツはとても綺麗だし、床もピカピカだ。
しかし、ベッドの上には十数個の大人の玩具と縄や手錠やボンデージテープが転がっていた。他にも凪にも馴染みのあるグッズが散らばっていた。
「凪、待ちきれなかったの? 片付けてないって言ったじゃん」
目を瞬かせる千紘の顔を見て、凪はようやくその意味を知ることになった。
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