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「そうだ。これは、現実で起こってることだった」
敦士は独り言を噛みしめるように告げて、両手の拳を握りしめた。数回深呼吸してから意を決して、男性の背中を追いかける。オレンジ色の暖かな光に導かれるように、迷うことなく一気に近づき、そして――。
「うわっ!?」
背後から男性の上半身を、両腕でぎゅっと抱きしめた。これ以上遠くに行かないように。沈んでしまう夕日と一緒に、いなくならないように。
「お願いします。教えて、ください……」
「敦士?」
「僕は貴方の名前を知りません」
「あ、確かに」
顔だけで振り向きながら、男性が一重まぶたを瞬かせた。
「他にも自分の目で確かめたいことが、山ほどあります。それからじゃないと、なにも判断できません」
「それは――」
「社内コンペに提出した、下書きにメモしてありました。外からの情報だけじゃなく、自分の目で直接見て心に感じてから、総合的に判断することって」
頭の中で覚えている言葉を口にした途端に、男性の瞳から涙が溢れ出す。しとどに頬を濡らす涙を見て、敦士は右手で優しく拭ってやった。
「ぉ、俺の名前は…高橋健吾。以前は広告代理店に勤めていたが、今は無職で――」
嗚咽を押し殺した低い声が、じんわりと敦士の耳に馴染んでいく。まるでこの人の声を覚えなければと、躰が急いている感覚だった。
「住んでるところはバスと電車を乗り継いで、1時間弱の場所……うっ」
「高橋さん」
いきなりの名前呼びには抵抗があったので、名字で呼んでみた。
「悪ぃ、信じられなくて。こうして追いかけられるとは、ぉ、思ってなかったから」
「以前の僕ならきっと、あのまま高橋さんを見送っていたと思います」
わけもわからず涙したあの夜から、3ヶ月が経っていた。大きな穴を胸に抱えた状態で、その穴を埋める欠片を探すように日々を送り、流されるままに仕事をこなしながら、多くのことを考えた。
「夢の中での出来事であいてしまった胸の穴を、僕に関わった貴方なら……高橋さんなら、埋めることができる気がするんです」
「人として駄目な俺の話を聞いてるのに、付き合おうというのか?」
自らの手で涙を拭った高橋は、窺う視線で敦士を見上げる。猜疑心を含んだ、高橋からの視線を受けているのに、敦士は柔らかく微笑んでみせた。
「実際に付き合ってみないと、なにもはじまりませんよ?」
「……本当に俺でいいのか? ついさっき信用できないって、自分から言ったじゃないか」
「信用できないそんな貴方だからこそ、僕がしっかり見張っていなきゃ、駄目な気がするんです」
敦士は勇気を振り絞り、困惑して固まったままでいる高橋に顔を寄せて、そのまま唇を重ねる。決意を表すような口づけを受けてもなお、高橋はさらに狼狽えて、敦士の頬に手を添えるなり、唇を外した。
「バカッ! 働いてる会社が近くにあるのに、いきなりなにをするんだ。こんなこと、往来でするものじゃない」
「でも……」
「それにもう、この腕を離してくれ。逃げたりしないから」
高橋の躰に回されていた両腕を渋々外すと、逃げないと言ったのに数歩だけ後退りする。
「高橋さん!」
「済まない。変な感じが否めなくてな」
「変な感じ?」
「夢の中では、背の高い俺がおまえを抱きしめていた。今はそれが逆なのが、変な感じがして」
日が徐々に傾く中で辺りが薄暗くなっていたが、高橋の頬が赤く染まっているのを、敦士は認識した。
「嫌なんですか?」
自分よりも年上でしっかりしていそうな高橋が、頬を染めて俯く可愛い姿を目の当たりにして、ふたたびキスしたい気持ちになる。それと同時に、見たことのない高橋のいろんな顔を見てみたいと、敦士は強く思った。