千紘は困惑していた。凪が自ら自分の胸に顔を埋めて擦り寄ってきたからだ。腕枕をすることさえ躊躇していたというのに、すると決めたらぎこちなさなど微塵もなくて、むしろそれが当たり前だとでもいうように千紘との距離を詰めてきた。
どー……なってんの? え? 凪の方から抱きついてきたんだけど。俺の脇腹に手ぇ置いちゃって。これって抱きしめ返していいってこと? いいんだよね? だって、凪から俺にくっついてきたんだよ!? くっついて寝たいって言ったら、それ通りに。そんなの、俺からもくっついていいってことに決まってる。
千紘は自問自答しながら、空いた腕を凪の背中に回した。トクトクと心臓の音が聞こえるが、自分の音なのか凪のものなのか聞き分けるのは困難だった。
千紘にはゆっくりと神経を澄ませてそれを感じる余裕などなかった。
凪に嫌われたくないから、極力ワガママを言うことを避け、凪の気持ちを汲み取ってそれに寄り添おうと努力した。
自分の欲望は二の次にして、凪の体を労った。
千紘がそうしたのも、このところ凪が本当に体調が悪そうだったからだ。以前の凪は元気に出勤していて、仕事終わりだって体力が有り余っているように見えた。
仕事に対してうんざりしているように見えて、どこか仕事で活力を得ているようでもあった。
千紘がどんなに疲れても美容師という仕事が好きなように凪からも同じものを感じた。彼からは仕事に対しての充実が見えた。だからこそプライベートでは、千紘もめいっぱいワガママが言えたし、多少強引にもなれた。
しかし、最近の凪にはそれがない。凪には休みなんてほとんどないから、千紘が会うのはいつも仕事の合間か、退勤後。条件は前と変わらないはずなのに、ここ数週間、いや1ヶ月前ほどから凪の様子がおかしかった。
暫く休みがほしい。そんな言葉が凪から聞かれたのだって意外だった。
その疲労は、今まで頑張り過ぎていたから急激に体へ影響を及ぼし始めたのだと思っていた。
それなら1人でゆっくりと過ごす方がリフレッシュできるはず。なのになぜ凪はそんな中、わざわざ自ら自分のところへ来たのだろうか。
千紘は凪の髪を撫でながら不意にそんなことを考えた。
考え事をしていても、千紘は凪の頭を撫でる手を止めなかった。前回も今回も自分の腕の中で眠っている凪。
つい2日前のことだ。次はいつ来るつもりだろうか……と考えてしまう。千紘としてはいつだって来てくれてかまわないのだけれど、果たして凪はこれで疲れがとれるんだろうかと心配になる。
でも1人でいても数時間しか眠れないって言ってたしなぁ……。また来たってことは、1人で寝るより俺と寝る方がマシってこと?
いやいや、そんなまさか。あの凪だよ? 男なんか嫌いだって叫んで俺は女じゃなきゃ無理なんだって拒絶して、触んなって俺の手を振り払った凪だよ!?
……え? どうなってんだっけ……。
出会った頃の凪を思い出せば思い出すほど、現状が意味不明すぎた。
何で女の子のところ行かなかったんだろ……。不意にそう思ったが、凪が女性とのセックスで絶頂を迎えられなくなったからだったとすぐに思い出した。
でも別にセックスしなきゃいいだけの話なんだよね。だって、俺ともしてないわけだし。一緒に寝るだけなら女の子の方がいいんじゃないかって思うけど……何で来たんだろ。
千紘は手を止めて胸の間から凪の顔を見つめた。いつの間にか寝息を立てている凪。前回も今回も寝つきがいいことで。そう思いながらも千紘はそっと下唇を噛んだ。
嬉しいんだけどさ、嬉しいんだけど……俺、勘違いしそうになるよ。都合のいい存在でもいいって思ったのは俺の方だけど……ちょっとくらい好意を持ってくれたんじゃないかって思いそうになる。
付き合えなくても傍にいられるだけで十分だし、女の子のところに行かずに俺を選んでくれただけで十分だし、腕枕受け入れてくれただけで幸せなんだけどさ……そんなことされたら独り占めしたくなるんだよ。
千紘は凪の頭を包み込むように腕で抱きしめ、髪に鼻先を押し付けた。甘いシャンプーの香りが漂う。千紘が好んで使っているシャンプーの匂いだ。
「……ずるい」
千紘はポツリと呟いて、ゆっくりと瞼をとじた。
凪が目を覚ますと、ふわっと食事の香りが鼻を掠めた。パチパチと瞬きをして体を起こすと、カーテンの隙間から日が差し込んでいた。
もう朝か……なんて思いながらスマートフォンを探した。しかし辺りを見渡しても見当たらない。暫くしてからリビングに置いてきたかもしれない、とうろ覚えの記憶を辿った。
そんなことよりも凪は、自分の隣に千紘がいないことに驚いた。いつもなら、アラームでは目を覚まさず、凪が起こしたって起きない。すなわちそれは、千紘の方が後に起きることを意味する。
しかし、どういうわけだか千紘の姿はなく、自分以外の温もりもベッド内には残っていなかった。
それどころか漂ってくる料理の匂いは、おそらく千紘が用意しているものだ。朝早くから朝食作りだなんて、マメな男だと思いながら凪はベッドから這い出た。
一応グレーのシーツを纏った掛布を整えてリビングへと向かう。
ドアを開けるとエプロンを装着した千紘が、笑顔で「おはよう」と言った。
なんだかエプロンがしっくりときて、凪はぼんやりとそれを見つめた。
「目覚ましかけなきゃ起きれんのな」
「さすがにあんだけ寝れば俺だって起きるよ」
千紘はフライパンの中身を皿に移しながら言った。香ばしい匂いと油の匂い。どちらも食欲を唆る匂いだった。
「朝っぱらから飯作るんだな」
「朝っぱらったって、もうお昼だよ? まあ、寝起きでそんなに食欲ないだろうから、The朝ごはんだけどね」
そう言って千紘が運んできた皿の上には、こんがり焼けたベーコンとスクランブルエッグとマカロニサラダが乗っていた。
「……シャレた朝ごはんだな」
「和食の方がよかった?」
「いや、何でもいい」
「パンでもいい?」
「うん」
「スープ飲むでしょ?」
「飲む」
「豆乳のクラムチャウダーだよ」
「女子か」
そんな会話を繰り広げ、凪は一旦リビングへ向かってスマートフォンを拾い上げてからダイニングテーブルの前までやってきた。
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