凪がスマートフォンの画面に目を移す。その瞬間、丸い瞳を更に丸くさせた。
「11時……」
「そう、11時。だからお昼だって言ったじゃん。俺も相当寝てたけど、凪は11時間寝たことになる」
千紘は可笑しそうに笑いながら、トーストでふっくらと焦げ目をつけたパンとバターをテーブルの上に置いた。
「11時間!?」
「体力ある証拠だね。寝るのも体力が必要だから」
「1回も起きなかった……」
「そうなの? じゃあ、よく眠れたってことだ」
「ああ……」
凪は全くそれが信じられず、呆然と立ち尽くしていた。今まで続けて眠るのは3時間が限界だった。それ以外は何度も目が開いて、二度寝、三度寝と繰り返す。
何度も寝たって全く眠った気になれなくて、いつもあくびばかりしていた。
「ねぇ、座ったら? お腹減ったでしょ?」
「……減った」
コクンと頷いた凪は促されるまま椅子へと座った。料理との距離が近付くと、余計に香りが強くなり、凪の空腹を知らせた。
「スープ熱いから気を付けてね」
そう言って目の前に置かれたスープカップからは湯気が漂っていた。
凪がゴクリと喉を鳴らすと、その向かい側に千紘が座った。昨日と同じ配置だった。
「いただきます」
千紘はそう言って手を合わすと、パンを一口サイズにちぎってバターを塗った。それを口に放り込むと、チラッと凪を見て「食べないの?」と尋ねる。
「食うよ。腹減った」
「うん、召し上がれ」
「ちゃんとした朝飯、初めてかも……」
「お泊まりのあととかお客さんとご飯行かないの?」
「行くけど、家じゃ食べないから」
「ああ、そういうことね。朝食はちゃんと摂った方がいいよ」
「お前、いつも食べてくんだっけ?」
「いんや、1人だと食べない。てか、起きたら家出る時間だし」
なんとも千紘らしい回答に、凪は一旦持ったフォークをそのままに思わずふっと笑った。
千紘も凪につられて少し笑った。
「でも休みの日くらいちゃんと朝食食べるのいいよね」
「お前がもう昼食だって言ったんだろ」
「そうだね。最近、休みの日でも用事あったりしたからこんなにのんびりした朝は久しぶりだ」
千紘は穏やかな顔で指についたパンかすを指同士を擦りながら落とした。それからスプーンを手に取って、クラムチャウダーをかき混ぜた。
凪もフォークでベーコンをつつきながら「俺も」と答える。
「凪ってお泊まり多いよね?」
「んー……お泊まりっつか、貸切も多いから常に客といる感じ」
「えー、いいなぁ。俺も凪のこと貸切したい」
穏やかな時間に千紘はすっかり気が抜けていたのか、素直な一言がこぼれてしまった。言ってからはっと自分の失言に気付いて慌てて指先で唇に触れた。
凪はベーコンを丸めて口の中に入れると、咀嚼しながら千紘の顔を見た。
顔は若干伏せたまま、上目遣いで凪を見ている。まるで反省している子供のようで、凪は軽く頬を緩めてスクランブルエッグをすくった。
黙ったまま直ぐに次の一口を口に運ぶ凪に、千紘は聞こえてなかったのか、と一瞬気が抜けた。
「聞こえてるよ、バーカ」
気付いた凪が間髪入れずに言ったものだから、千紘は驚いてスープカップの中にスプーンを落としそうになった。パシャッと跳ね返るクラムチャウダーは全く冷めておらず、千紘の腕に数滴付着しては、熱を伝えた。
「あっつ!」
「気を付けろって言ったのはお前だろ」
「だって、凪が」
「俺がなに?」
言いながらも食事を続ける凪に、千紘はさっと左右に首を振って「なんでもない」と話を打ち切った。貸切なんてできるわけがないとわかっているのだ。いくら羨ましがったって、凪が望まない限り触れることもできないし、ワガママも言えない。
以前のように鬱陶しいと笑ってくれる内はいいが、本気で迷惑がられたらもう修復不可能な気がして千紘はそれ以上凪に求めるのをやめた。
凪は、濡れ布巾で自分の腕を拭う千紘の動作を見ていた。何でもないと言って話を打ち切ったことも不思議だった。
以前なら、凪がどんなに拒絶したってしつこくねだったりしたものだ。当然予約することなどできないとわかっていても、何とかして強行突破しようとしていた過去もある。
凪はあの時の千紘はどこへやらと素早く瞬きをした。
ピリリリリリ--
その時、スマートフォンが音を立てた。凪の知る音ではなかった。千紘のかと思いながら音がする方に目を向けた。
千紘も自然と腰を浮かせて、リビングのテーブルの上に置いてあったスマートフォンを手に取った。
「もしもし?」
凪に断りを入れるわけでもなく電話に出た千紘。凪は一瞬千紘の方をチラリと見たが、直ぐに食事へと戻した。
普段食べない朝食も思った以上に進んだ。女子の朝食だと半ばバカにしていたが、満たされる程に美味だった。
千紘が熱がったクラムチャウダーも何度も息を吹きかけてから口に運んだ。あさりの味がして、凪は癒されるように息をついた。
「今日? うん、休み。……いいよ。どっか行きたいところあるの?」
穏やかな口調の千紘の言葉に凪はピクリと眉を上げた。声のトーンからして、樹月でないことは明らかだったが、他の友達か職場仲間なのか、凪は千紘が自分以外の人間と会話をしながら優しく微笑むのを初めて見た気がした。
「今から? はは、さすがにすぐは無理だよ。じゃあ、支度できたら迎えに行く。そのつもりだったんでしょ」
笑いながら会話を続ける千紘は、どうやら今日どこかにでかけるらしい。凪は会話の流れからそれを汲み取った。
凪はアツアツのスープを冷ましながら、何となく胸の奥がモヤモヤするのを感じた。
まるで飯を食ったら出ていけと言われているような気分になった。アラームをかけずに眠っていいと、ゆっくりしていけと言ったくせに自分はこの後どこかへ出かけるつもりなのだ。
今一緒にいる自分とは解散して別の誰かと。たった今、凪のことを貸切したいだなんて言ったくせに、その相手を帰らせて他の人間を優先させようとしている。
凪はなんとなくそれが面白くなかった。
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