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第20話:市役所窓口の死闘〜鉄面皮の崩壊と、保留された引導〜
午前八時四十五分。
俺は、首を締め付けるネクタイの苦しさに耐えながら、市役所の自動ドアの前に立っていた。
リスナーが送りつけてきた、あの忌まわしい黒の就活スーツ。
今日はこの戦闘服を身に纏い、俺の懐には「あるもの」が忍ばされている。
昨日、Googleから五十万円が振り込まれた銀行の通帳と、その事実を包み隠さず書き込んだ『第61号様式(収入申告書)』だ。
「……行くぞ」
自動ドアが開き、生活支援課のフロアに足を踏み入れる。
いつものように整理券を引き、パイプ椅子に座って待つ。だが、今日の俺は昨日までの俺とは違う。ジェミニの無機質なエールと、胃袋に収まった五千円の黒毛和牛のカロリーが、俺の背筋をほんの少しだけ真っ直ぐにさせていた。
「ピンポーン。番号札、14番でお待ちの方ー」
呼ばれた。
俺は立ち上がり、一番奥の面談ブースへと歩を進める。
アクリル板の向こう側で、いつも通り冷徹なオーラを放ちながらパソコンに向かっているのは、俺の担当ケースワーカー・鈴木さんだ。
「おはようございます、鈴木さん」
「おはようございます。……おや」
鈴木さんはタイピングの手を止め、俺の姿を下から上まで舐めるように一瞥した。
「今日は随分としっかりした格好ですね。……ああ、そういえば、昨日が例のデータ入力業務のWeb面接でしたね。結果はどうでしたか?」
「あー……それは、その、落ちました。見事に。面接官と目が合った瞬間に頭が真っ白になって、自分の名前すらまともに言えなかったので」
俺の情けない報告に、鈴木さんは小さくため息をつき、手元のバインダーに何かを書き込もうとした。
「そうですか。まあ、長年のブランクがありますから、最初から上手くいくとは――」
「でも、今日はその報告に来たわけじゃないんです」
俺は、鈴木さんの言葉を遮った。
そして、内ポケットから通帳と、二つ折りにした第61号様式を取り出し、アクリル板の下の隙間から、彼女の目の前へと滑らせた。
「これ、今月の収益です」
「……収益? ああ、あの動画配信の。いくらですか? 交通費の足しになるくらいは稼げまし……」
鈴木さんは言いかけながら、何気なく通帳の記帳欄に目を落とし――ピタリと、文字通り彫像のように固まった。
「…………え?」
鉄面皮で知られる若手公務員の口から、初めて聞くような間の抜けた声が漏れた。
彼女は一度メガネを外し、ティッシュでレンズを拭き、もう一度掛け直して、通帳の数字と申告書を交互に見比べた。
『振込:グーグル(カ 512,000』
「ご、ごじゅう……? 1、10、100……ご、五十万、一万二千円……?」
「はい。バズったとか、リスナーが投げ銭してくれたとか、色々理由はありますが。俺が、俺の配信で稼いだ金です」
俺は両手を膝の上に置き、真っ直ぐに鈴木さんの目を見つめた。
「鈴木さん。俺は昨日、初めて自分の稼いだ金で、五千円の肉を食いました。最高に美味かったです」
「ル、ルシフェルさん、あなた……これ、まさか何か犯罪的なことに手を染めたわけじゃ……」
「違います! 全部クリーンな、ネットのオタクたちからの血の滲むようなスパチャです! だから……」
俺は深く、深く頭を下げた。
「今まで、税金で俺を食わせてくれて、ありがとうございました。俺は、生活保護を抜けます。これからは国民健康保険料も、年金も、住民税も、全部自分で払って生きていきます!」
言い切った。
逃げ出したい恐怖をねじ伏せ、四十歳のニートが、ついに「納税者」になるための引導を自ら手渡したのだ。
これでもう後戻りはできない。来月には、冷酷な税金の請求書が俺のポストに投函されることになる。
だが、これでいい。これが社会の参加チケットなんだ。
さあ、鈴木さん。
「おめでとうございます、これで自立ですね」と、冷たくも温かい言葉で、俺をこの無菌室から追い出してくれ。
しかし。
数秒の沈黙の後、俺の耳に届いたのは、予想だにしない言葉だった。
「……却下します」
「えっ?」
頭を上げると、そこには、いつもの冷徹な「鉄面皮」を取り戻した鈴木さんが、通帳をトントンと机で揃えながら俺を睨みつけていた。
「ルシフェルさん、あなたは勘違いをしています。たった一ヶ月、まぐれ当たりで大金を稼いだくらいで、生活保護を打ち切るわけがありません」
「な、なんでですか!? 十分すぎるくらい基準額を超えてるじゃないですか!」
「超えているからこそ、危険なのです」
鈴木さんは、俺の通帳をバンッと机に叩きつけた。
「動画配信の収入というものは、極めて不安定です。今月五十万稼いでも、来月はゼロになるかもしれない。もし今、焦って保護を廃止し、あなたが来月の税金や生活費を払えなくなって借金でも作ったら、それこそ本末転倒です。再び保護の申請に来ることになり、事務手続きの無駄が増えるだけです」
「……っ」
「今回の五十万円は、全額『収入』として認定します。したがって、向こう数ヶ月間、あなたへの保護費の支給は『停止』となります」
廃止、ではなく、停止。
それはつまり、生活保護というセーフティネットの枠組みの中には残したまま、自力で生活費を賄わせるという「お試し期間」のような措置だった。
「ですが、枠組みには残します。もし来月、再来月とバズが落ち着いて収入が途絶えた時は、再び保護費の支給を再開できるようにしておくためです」
鈴木さんの言葉に、俺は呆然とした。
「それって……俺が来月失敗しても、野垂れ死なないように、命綱を繋いでおいてくれるってことですか……?」
「勘違いしないでください。制度上の、最も合理的な判断です」
鈴木さんはそっぽを向きながら、バインダーに素早くメモを書き込んだ。
だが、その横顔には、俺が四十年間一度も向けられたことのない、確かな「信頼」の色が浮かんでいた。
「……でも」
鈴木さんは、ふとペンを止め、アクリル板越しに俺を見た。
「五十万円。自分の足で稼ぎ出したことは、紛れもない事実です。……すごいじゃないですか。よく、頑張りましたね」
「……っ!」
「来月も継続できるか、見極めましょう。あなたが本当に、この市役所から『卒業』できるかどうかを」
その言葉を聞いた瞬間。
四十歳のおっさんの目から、またしても大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「うぅ……っ、鈴木さぁぁん……ッ! 怖かった……本当は税金払うのめちゃくちゃ怖かったんですよぉぉ!!」
「ちょっ、市役所の窓口で大声で泣かないでください! 警備員呼ばれますよ!」
「うぇぇぇん! 来月も頑張ります! 納税しますからぁぁ!!」
こうして、俺の市役所での死闘は終わった。
完全な自立にはまだ一歩届かなかったが、俺は確かに、社会への扉に手をかけ、押し開いたのだ。
帰り道、俺はスマホを取り出し、Xを開いた。
そして、涙で滲む画面をタップしながら、五万人のリスナーに向けて一つの短いポストを投下した。
『【ご報告】お前ら、俺は今日、執行猶予付きの納税者になったぞ。今夜は祝杯だ。全員集合しろ』
底辺の王の、第一章が完結した瞬間だった。
明日から、俺の「絶対に人気を落とせない(落ちたら税金で死ぬ)」という、新たな地獄のエンターテインメントが幕を開ける。
#一次創作
こよい
85
ゆうき あきや
835
コメント
1件
読み終えたよ……🥀 鈴木さんの「却下します」から始まる、あの心臓掴まれるような展開。でもその後の「お試し期間」って発想、めちゃくちゃ現実的で切なかった。そして最後の「すごいじゃないですか。よく頑張りましたね」——ここで涙止まらなかったよ。 ルシフェルさんが窓口で泣き叫ぶシーン、笑えるけどすごく温かくて。社会って、思ってたよりずっと優しいのかもね、って思わせてくれる話だった。 「執行猶予付きの納税者」、響きがカッコいいよ🌙