テラーノベル
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掃除も終わって、誰もいない時間。遥は、旧校舎と新校舎をつなぐ渡り廊下の踊り場に立っていた。
低くなった陽の光が、ガラス越しに足元を斜めに照らしていた。
「……ひとりで反省会?」
唐突に聞こえた声。
振り返らなくても、誰かはわかっていた。
蓮司が、手すりに寄りかかっていた。
制服はだらしなく、上着のボタンも留めていない。
だけどその立ち姿には、どこか“計算された余裕”があった。
「昨日の夢、見た?」
遥は答えなかった。
ただ、睫毛の影を深くして、足元を見つめていた。
「……日下部のいない世界って、思ったより静かだよな。
誰も、庇ってくれないし──誰も、勘違いしないし」
蓮司の声は、あいかわらず軽かった。
なのに、言葉のひとつひとつが、皮膚の下をなぞるように痛い。
「で、どうだった? “日下部のいない地獄”。
あれが、おまえの本当の居場所じゃないの?」
遥は、視線を逸らした。
「……別に……」
「別に、ね」
蓮司が笑う。
「嘘ってさ、慣れると癖になるよな。
“気にしてないふり”とか、“平気なふり”とか──
おまえ、昔から得意だもんな、そういうの」
風が吹き抜ける。
蓮司は歩み寄ってくる。その足音すら、軽かった。
「でも、昨日のおまえ。……かわいかったよ」
遥の顔が、かすかに動いた。
表情ではなかった。睫毛が、ほんの少しだけ揺れた。
「“帰ってくんな”って、祈ってたろ?」
「でも、“帰ってきて”って、泣いてたよな。……どっちが本音?」
遥の喉が、ひくりと動く。
「──おまえ、何が言いたいんだよ」
その声には、怒りもなく、反論もなかった。
ただ、濁った水の底からすくい上げたような、乾いた音だけ。
蓮司は、目を細めた。
「別に。
ただ──“信じたい”って思った瞬間、もう負けなんだよ、ああいうのは」
「信じたいって願って、裏切られたときに一番壊れるのは、おまえみたいなやつだからさ」
蓮司の声は、優しすぎるくらい穏やかだった。
だから余計に、逃げ場がなかった。
「おまえ、またやるつもり? “あのとき”みたいに」
「好きだって思った相手に、自分から“壊してくれ”って差し出すの」
遥は、唇を噛んだ。
痛みは感じなかった。ただ、何かを止めたかった。
「……俺は……壊したくないだけだよ」
「へえ」
蓮司はふっと笑う。
「でも、自分で気づいてるだろ?
“壊したくない”って思う時点で、もうおまえの中じゃ、
そいつが“壊れる存在”って前提になってんの」
「おまえがやってきたこと、そういうことばっかじゃん。
“守りたい”って思った相手、結局全部、自分で壊してきた」
「なのに──まだ“信じたい”とか言うんだな。えらいよ」
遥は何も言えなかった。
何を言ったって、全部見透かされてる気がした。
蓮司は、目を伏せた遥の肩を、ポンと軽く叩く。
「俺、好きだよ。そういうとこ」
「汚いくせに、綺麗なとこ見て壊れそうになってんの。
そのまま、壊れなよ。もっとちゃんと」
「そしたら──俺が拾ってやるからさ」
それが、“優しさ”のように聞こえたのがいちばん残酷だった。
蓮司は何事もなかったように踵を返す。
夕日の中を、飄々と歩き去っていく。
遥はその背中を見送ることもできず、ただ立ち尽くしていた。
胸の中には、もう誰のものかわからない言葉と、
自分自身に向けた嫌悪だけが、残っていた。
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