「もしかしてまだ心の準備が出来ていませんか? でもね、大丈夫ですよ、春凪。そういうのは成り行きに任せているうちに追い付いてくるものですから」
ってこちらも見ないままに続けられたものだから「そんなの嘘ですよぅっ!」と思わず口に出してしまった。
私の抗議の声に立ち止まると、こちらに背中を向けたまま抑えた声音で宗親さんが言う。
「――前に途中までで止めた日、春凪は最後までしなかったことを不満に思ったりしなかったんですか?」
確かにあの日の私は、宗親さんを他の女性達に取られたくない気持ちが溢れて、そんなことを思わなかったわけじゃない。
でも、それとこれとは別問題なわけでっ。
頭の中ではアレコレ考えているくせに、何ひとつ言えないでいる私に業を煮やしたように、宗親さんがつぶやいた。
「ひょっとしてキミは……僕に抱かれるのがそんなに嫌なの?」
「そっ、そんなことっ、思ってないです! ただ、私……」
――戸惑っているだけなんです。
入籍したって言われても、一緒に婚姻届を出しに行ったわけじゃないから……イマイチ現実味が伴わなくて、半信半疑なの。
ねぇ宗親さん。頭のいい貴方なのに、何でそんな簡単なことが分からないの?
そう言う不満とともに、今ここでこちらを見ようともしない貴方に、「婚姻届、一緒に出しに行きたかったのに!」というモヤモヤをぶつけてもいいですか?
さすがに今日の宗親さんは色々と酷い!と思ったら、私、とうとう我慢が出来なくなってしまった。
「私っ。宗親さんと一緒にお役所へ行ったわけじゃないのでっ、正直夫婦になったと言う実感が、全く湧いてこないんですっ!」
一緒に出しに行きたかった、という本音だけは何とか飲み込んだけれど、宗親さんを責めた言い方になってしまったことに変わりはない。
そこまで言ったらやっと。
宗親さんがゆっくりとこちらを振り返ってくれた。
そうして私をじっと見つめてしばらく思案した後、
「……春凪、もしかして婚姻届、僕と一緒に出しに行きたかったりしましたか?」
そう仰って。
宗親さんが、言えなかった私の気持ちに気付いていらしたことにドキッとして。
私は慌てて視線を足元に落とした。
宗親さんほどの人だもん。
あそこまで言われて気付かないわけないよね。
自分から仕掛けたくせに、ハッキリそうじゃないかと問われた途端怖気付くなんて、私も大概意気地なしだ。
「春凪?」
だけど宗親さんはそんな私の逃げを許してくれるような人じゃない。
あごに手を添えられて顔を上向かせられた私は、宗親さんにすぐ近くから瞳を覗き込まれてしまう。
視線だけふいっと逸らしてそんな彼の追及から逃げてしまおうかとも思ったけれど、今ここでそんなことをしたら「そうです」って認めているのと同じになっちゃうからダメ!
「実感が得られないのは確かなので……いくら偽装とはいえ一緒に行くべきだったよね、とは思っています。――そもそも婚姻って、私たちふたりの問題なわけですし」
部下が上司に業務上の不備を異議申し立てするような調子で事務的にそう言ったら、宗親さんが小さく吐息を落とした。
私は宗親さんの溜め息に、心臓をギュッと鷲掴みにされてしまったような不安を覚える。
(面倒な女だと思われてしまったかな)
そう思うと居た堪れない気持ちになって、鼻の奥がツンと痛くなる。
だけど泣きたくなかったから、無意識に私、下唇を噛んでしまっていた。
「春凪、ダメですよ」
そんな私に宗親さんが優しくそう言って親指の腹で唇に触れて口を割り開く。
その優しい手つきが、本当は私、宗親さんに愛されているんじゃないかという錯覚を覚えさせるから、頭が混乱してしまった。
「すみません、春凪。僕の配慮が足りていませんでしたね。――だけど……そんなにがっかりしないで? 大丈夫ですから」
それなのに、宗親さんはさらに追い討ちをかけるみたいに私をギュッと抱きしめて、優しく背中をトントンと叩いてくださるの。
――ねぇ、宗親さん。大丈夫って……なに?
出してしまった婚姻届を再度出しに行くことは、一度離婚でもしない限り無理だけれど、もしかしてそうしようとか思われてます?
もしそうだとしたら、宗親さんが私の気持ちを汲んでくださって、こうして甘やかしてくださるだけで、もうそこは諦められるかなって思えますから。
宗親さんの「大丈夫」とは別の意味かも知れないけど……私、きっと大丈夫です。
ただ。
「本当はちょっとだけ……」
宗親さんの胸に押し当てられてくぐもった声を出したら、宗親さんが私の言葉を聞き逃したくないみたいにそっと腕を緩めて下さった。
私はそんな宗親さんを見上げて、
「……何て女心の汲めない酷い人なの?って思って怒ってました」
本当は〝物凄く悲しかった〟が正解だけど、そこは少しだけ脚色しておいた。
「……すみません」
いつもなら私が何を言っても上手に丸め込んでくる宗親さんなのに、今日はちゃんと反省してくださったのかな。
すごく素直にすんなり謝ってくださって。
それが何だかとっても新鮮で驚かされた。
それで、キョトンとした顔で宗親さんを見上げたら「あのね、春凪。僕だって悪いと思った時はちゃんと謝れる男ですよ?」って苦笑されてしまう。
その言葉に、心の中を見透かされた気がして「えっ。何で分かったんですかっ。エスパーなんですかっ」と思わず口走った私は、結果的に宗親さんのことを「謝れない強情っぱりだと思っていた」と認めたことになってしまって。
宗親さんに、さらに苦い顔をさせてしまったの。
ごめんなさい。反省です。
でも――。
「悪かったと思っていらっしゃるんなら誠意を見せてください。私が宗親さんとの婚姻を実感できるまで、初夜はお預けです。――男に二言はありませんよね?」
ねぇ宗親さん。私、もう少しぐらい意地悪をしても構わないですよね?
だって宗親さん、それだけのことを私にしたんだもの。
宗親さんもちゃんと反省してください。
悪いことをしたと認めてくださった後だもん。
今更「それはダメです」とは言わせないんだから。