コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
あの夜以来、宗親さんは大人しく私からの許しが出るのを待ってくれていて――。
私は私で、本当は別に宗親さんに触れられることがイヤなわけじゃないから……どうやって「もういいですよ」と彼に言おうか迷っていた。
タイミングが測れないままに時間ばかりが過ぎていくことに内心ものすごく焦っていて。
素直になれない自分のことを、こんなにもどかしく思ったことはない。
***
そんな矢先の、金曜の朝のことだった。
「春凪に贈る婚約指輪なんですけどね、このぐらいのものを考えています」
宗親さんがそう言って指輪のカタログを持ち出していらしたのは。
宗親さんが「どうぞ」と手渡してくださった資料に何気なく視線を落とした私は、思わず「ひっ」って小さく声を漏らしていた。
だって! どれも七桁超えの料金設定だったんだもん!
正直五桁だって良いと思っていたくらいだし、よもや六桁を越えたとしても、前半でいいし、それは消費税込みで六桁になっちゃいました〜な感じで、を想定していた私には、税抜き表示と思しき金額の、桁からしてひとつずれていたのが大問題で。
「ぎっ、偽装結婚にこんな高いの、もったいないですっ! それに私たち、もう入籍したんですから婚約指輪は要らないです。普段使い出来るような結婚指輪だけで十分です!」
慌ててまくし立てる私に、
「それでは僕の気がおさまりません。春凪に、僕と結婚したと言う実感を得てもらうためにも婚約指輪で周りに『柴田さんっ、それどうしたんですか?』とチヤホヤされる所から体験して頂きたいんです」
あーん、神様ぁー!
マテを無理強いしすぎて、宗親さんがおかしくなりましたー!
「じっ、実感してますっ! 私、宗親さんの奥さんになれたって実感してますのでっ!」
私が桁違いの金額を冠した婚約指輪のプレッシャーから逃れたい一心でそう言ったら、宗親さんがニヤリと腹黒な笑みを浮かべた。
(あっ! もしかして私、罠にはめられましたかね!?)
そう気付いた時には後の祭り。
宗親さんはとても嬉しそうに私をギュッと抱きしめていらした。
「春凪、やっと実感してくれるようになったのですね。――では今夜はいよいよ」
宗親さんの嬉しそうな声に、私はもう意地を張っているのがバカらしくなって。
何も反論しないままに彼の腕の中におさまっていたら、宗親さんが私の耳元、懇願するように囁いていらした。
「今度こそ僕にキミを抱かせてください、春凪」
その、どこか掠れたような甘い甘い声音に、私は身体がぶわりと熱くなる。
「お願い、許可して? ――春凪」
追い打ちをかけるようにそう重ねられて、私はコクコクとうなずいた。
途端、宗親さんに唇を塞がれて、口中を思う存分貪られた私は、その不意打ちのような激しいキスの気持ちよさに、朝っぱらから溺れてしまいそうになる。
「あ、んっ、はぁ……っ」
時間なんてないのに、「いっそこのまま」とか、痺れた頭の片隅でとんでもない小悪魔な考えが駆けめぐった。
口付けが解かれる頃には私、自力で立っていられなくて宗親さんの腕に支えられてやっと立っている感じで。
「宗親さ……」
熱に浮かされたように宗親さんの名前を吐息に乗せてつぶやいたら、宗親さんがチュッと音を立てて私の耳を吸い上げてから、「続きは夜にじっくりと……」ってささやいていらした。
私は熱を浮かされたこの身体を、今日一日持て余さないといけないのだと絶望的な気持ちになる。
マテ、が呪いのように身体を蝕んでいたのは、私自身の方だったのかもしれない。
「今夜はふたり、定時には上がりましょうね。残業は禁止です」
宗親さんがこの話を切り出したのが、土曜がお休みの週の金曜日の朝だというのも、何だか仕組まれていたような気がしてしまう。
「今、夜……」
宗親さんの言葉を霞が掛かったような頭で復唱して、私は熱を流したいみたいに小さく吐息を落とした。
***
朝の宣言通り、宗親さんは自分も残業をしなかったし、当然のように私にもそれをさせなかった。
『駐車場で待っています』
宗親さんが私の横を通り過ぎ様、デスクの上に資料と一緒にそんなメモを置いて。
私はそれを見るなり朝の熱がぶり返すようで、慌てて首を振ってそれを振り払うと、身支度を整えてオフィスを飛び出した。
エレベーターで同じ箱に乗り込むのは何となく憚られて、そこだけはわざとズラして。
外に出たら数十メートル先を、駐車場に向けて歩いておられる宗親さんの後ろ姿が見えた。
(あーん、かっこいいっ!)
とか思っているのと同時に、アレコレを考えてしまいそうな自分を必死で抑えているのは内緒。
私のご主人様(偽装だけど)は、後ろ姿もキスのテクニックも(あっ、違っ)……とっ、とにかく何もかもが誰よりもイケてます!
定時を過ぎてすぐだからかな。
私たちの他にも社を出て駐車場に向かう人たちが幾人も見えて。
(ダメ、ダメっ!)
私は緩みそうになる頬をペチペチと叩いて、必死に気持ちを引き締めた。
そんな風に立ち止まってフルフルしている私を、怪訝そうな顔をしながら沢山の人が追い抜かしていく。
「柴田さん、お疲れ」
と、不意に背後から声をかけられて、心の中で「ひえっ」と悲鳴を上げた私は、恥ずかしいくらいビクッと肩を跳ねさせてしまった。
「あ、足利くんっ」
今度はちゃんと名前が言えてホッとする。(こ、声はちょっと裏返っちゃったけど)
「ひょっとして驚かしちゃった?」
聞かれて照れ隠し、慌てて首を横に振ったら、クハッと笑われてしまう。
(ちょっ、待って? もしかしてお見通し?)
などとテンパる私をよそに。
「――ところで珍しいね。今日は定時なんだ?」
話を切り替えるようにそう聞かれたけれど、すぐには気持ちがリセット出来ない私は、声を出せないままにコクコクとうなずいた。
足利くん、他の若い男性たちより比較的話しやすいと思ってはいても、やっぱり人並みに会話が弾むようになるには、もう少し言葉の助走が要るみたい。
(ましてや、こんな精神状態の今は特にっ)
「あ、そうだ! 週末だしさ。これから……どう? 呼び掛ければ同期、割とすぐ集まれると思うんだけど」
身振り手振りでお酒を飲む仕草をされて、私は慌てて顔の前で手を振り回して頭を下げた。
「ごっ、ごめんなさいっ。今日は――」
これから宗親さんとの初夜がっ。
考えただけで顔がぶわりと熱を持ってしまう。