「いえ。お気になさらずに。美容室でしたら娘も連れていけますので……」
『急なことで申し訳ありません』と電話口で先方は詫びる。『お約束させて頂いたのに、下平さんとのお約束を破ることになり、申し訳ありません』
「いえいえ」と首を振る聡美。「お互い子持ちですから、急な発熱は仕方がありません。どうかお気にならさずに……お大事になさってください」
『ありがとうございます』それから先方は三度お詫びの言葉を口にしたのちに電話を切った。
――やれやれ。
と、息を吐く。……別段、預かりを断られたとて不満などないのだが。あそこまで恐縮されてはかえって申し訳ない。こちらは通院をするわけでもましてや仕事をするわけでもなく――仕事であれば土曜保育という手もある――単に美容室に行くだけなのである。
ともかくあのお子さんの熱が下がることを願うばかりである。約束など二の次だ。……母親によく似た目を持つ快活な女の子だ。
口を開けたままことの成り行きを見守る娘に聡美は語りかける。「なぎちゃん。今日ね。なぎちゃんだけ田中さんのおうちに行くってお約束だったでしょう? でも。
田中さんのお子さん、お熱が出て。
朝一で病院行くんだって。インフルかどうかも分からないから、預かることは出来ないの。だからなぎちゃん」
聡美は、娘の待ち望む答えを言い放つ。
――ママと一緒に、髪切りに行く場所に行こう。
小田急線で一本。楽な道筋だ。
だが普段聡美がこの子を預けるのには理由があり……美容室に行くときくらい、ただの下平聡美になりたい。起きているあいだじゅうは『会社員』そして『ママ』であることを要求される彼女。誰からもなにをも期待されない、ありのままの自分に戻りたいのだ。
心持ち長めに娘を預け、町田の繁華街をふらつく……のも貴重な時間だ。幼児のお世話をひとりでしていると、ぼぅっとする時間もなかなか取れない。
「公園発見!」
窓から見える景色をこの子は楽しんでいる。聡美の頭のなかは自分が髪を切って貰っているあいだの待ち時間をどう持たせようか……そのことでいっぱいだ。絵本も持ってきたが、せいぜい三十分が限度。カットと前後のシャンプーで一時間半……やはり定番の動画か。
結論が固まったところで町田に到着した。ひとの波の流れに従い、娘を気遣い電車を下りる。……足元気をつけてね、なぎちゃん。
JRからだと近いのだが聡美が乗るのは小田急線だ。大人の足で十五分。五歳児の足だと、二十分はかかると見た。時刻は午前十一時過ぎ。予約の時間は十一時半。
「行こうなぎちゃん」改札を抜けて階段をあがり、聡美は娘に声かけをする。「ここからちょっと歩くから。頑張ろうね」
「ママの髪切るとこー?」
「そうよ」聡美は微笑みを意識する。ピンチのときにこそ余裕を。「イケメンのお兄さんが居るからね。楽しみだね」
「イケメン? やったー」
近頃、イケメンが大好きななぎちゃん。彼女にとっての『イケメン』とはなにも美麗なる少年を表すのではなく……女の子にやさしい男の子を意味する。女の子にいじわるをする男の子など言語道断。異性に対するシビアな目線をその年で身に付けるのだなと、妙に感心する聡美であった。
ところがだ。
聡美がこれから目にするのはまた別のイケメンであった。
あの長身。歩き方。……間違いない。
その美容室は原町田の繁華街を抜けたところにある。近くにコンビニやドラッグストアがあるものの、その店に行く以外の人間であればこの辺りの居住者か。……いや。
直感が彼女のなかでささやいた。……ヘアワックスでセットされ、全体に短くなった髪。
――美容室帰りだ!
先方もこちらに気づいている。視線を外さない。しかも、……
子連れ。
やっぱりなあ、という感想を聡美は得た。しかしながらまた別の聡美がざわめく。……そんなはずがあるわけない!
彼が手を繋いで歩くのは美凪とさほど変わらぬ年齢の女の子だ。ということはつまり、つまり……。
望んでいた結論が急に訪れると一瞬、人間の思考は停止する。
遠い縦の二本の線だったようなのが次第にクローズアップする。彼のほうは驚きに目を見開かせていたが……やがて、それを収束させ。にこやかに笑い、彼女の正面に立った。
「こんにちは。……何歳?」
口火を切るのは彼が先だった。長身を屈める彼に美凪が受け答えをする。「しもひらみなぎです。ごさいです」
そっか、と彼はからだを起こすと聡美に目くばせをし、
「……年中さんかな。しっかりしてるね」
「いいえ、そんな……」美声を持つ美青年にまともに微笑みかけられてはこちらが持たない。寿命が縮みそうだ。
すると青年は娘と繋いだ手を小さく振ると「ご挨拶」と促す。その子は「ももせはづきといいます」と名乗る。パパに似て美人さんだ。ふっくらした頬が愛らしいその子は聡美を見上げるとはきはきと、「いつもパパがお世話になってます! パパが会社に行く途中ですてきなおねえさんがいるっていつもパパが話してます!」
その台詞を聞いた途端、聡美の心臓が早鐘を打つ。――いま、なんと……?
「こらこら。はーちゃん、そこまで言わなくていいの」照れたように頭を掻くと青年は聡美に目を向け、「これからデイヴのところに行くんでしょう? 待たせるのが大変だったらうちの葉月と公園で遊ばせる手もあるけど……」
「公園!」食いついたのは美凪だ。しまった、スイッチが入ってしまった……。「なぎちゃん公園行きたい!」
聡美は困ってしまう。「でも……ママ、いまからお約束があるの。いますぐには公園には行けないわ」
「このあと予定はありますか」と助け舟を出す青年。いえ、と聡美が首を振ると、青年は目の高さを美凪に合わせ、「……いまからママは髪を切るから。これは前々から決まっていたお約束だよね。守れるかな?」
うん、と美凪が頷く反応を確かめたうえで青年は、
「じゃあそれが終わったら。みんなお腹ペコペコだからお昼ごはんにしよう。お腹いっぱいになったらみんなで公園で遊ぶ。これでどうかな」
「分かった」と美凪。ゆーびきーりげーんまんで約束をするとじゃあさ、と青年は立ち上がり、「向こうのジョナサンに十三時でどう? 席が広くてお勧めなんだ。場所は知ってる?」
最後は聡美に向けた台詞だった。大学時代を町田で遊び歩いて過ごした彼女は無論把握している。「はい。分かります……」
「念のためぼくの連絡先ね」バッグから手帳を取り出し、中を開くとさらさらと書き留める。ミシン目の入ったメモをぴりぴりとちぎって手渡すと「はい」と微笑む。
目が、大きい。そしてきれい……。
改めて間近で見ると美青年の威力に驚かされる。
この手の反応は慣れっこなのだろう。青年は落ち着いた様子で、
「……百瀬(ももせ)晴生(はるお)と言います。『百(ひゃく)』に立つ瀬の『瀬』、快『晴』に『生』まれるで晴生。仲のいいやつは『はるちん』て呼んでます」
「下平です」と彼女はお辞儀をする。どうせならと。「仲のいいひとは『さとちゃん』て、呼んでます……」
真似っこをしたら彼が笑った。そっかそっかと……。じゃあ、と美青年は目を細め、
「待っているあいだじゅう――」
「ぼーっとしてるけどどーしたの」
はっ、と我に返る。場所は行きつけの美容室。いつもなら、前の夫の愚痴やら子育ての苦労話を電池が切れるまで喋り倒す聡美であったが……。
鏡のなかで美容師デイヴはいたずらな感じで笑う。「どしたの下平さん。……恋でもした?」
実は実は。
そうなのです……!
表情だけで読み取ったらしい。あー、そっかそっか、とデイヴは聡美の髪の毛束を指で挟みながら、
「――はるちん。かっこいいもんね。そら、惚れるわ。これから会う予定とか?」
――仕組まれたニアミスだったのか!?
ところがそれは、予想外の出来事だったらしい。「信じて。偶然なのほんと」とデイヴは弁明する。……聡美よりも年上のはずだが年齢不詳な、いつもNirvanaのくたっとしたTシャツを着こなすロックな美容師が。
「ぼくが話すより直接本人から聞くほうがいいと思うけれど」と前置きを入れたうえで、説明してくれた。はるちんこと百瀬晴生は、いつもお子さんを連れて訪れるということを。
なるだけデイヴはお客さん同士が顔を合わせないように予約を埋めるが、……というのは客同士が顔を合わせると客が『主役の座』から引きずり降ろされたように感じる場合があるとのこと。特に女性同士は。――確かに。いい男が自分以外の女相手にきゃっきゃ楽しげにしているのを見るのは、あまり気持ちのよいものではない。
百瀬晴生は、いつも午前十時に予約を入れる。リフレッシュのためにと、特にシンママの場合は、聡美のように子どもを預けてひとりで来るひとが殆どだ。
だが百瀬の場合は、違う。
「理由は、……直接本人に確かめな? ぼくから聞いたところで、面白くないでしょう?」
楽しげにカリスマ美容師デイヴは語る。……ことの成り行きを美容室の窓から見守っていたのか。展開がすべて読めているらしい。……それにしても、下平さん。
「いい顔してる。やっぱ女の子はこうじゃなくっちゃね」
そのあと百瀬と会うことを見越して、髪をコテでくるくるに巻いてくれた。気分は米倉涼子。あのスタイルに憧れる聡美にとって願ってもない話だ。そんな母の恋の行方を知らず娘の美凪のほうは動画に熱中している。
聡美が美容室を出る際、「口紅を塗るんだよ」とデイヴはアドバイスを送る。「下平さんは、色素が薄いから、濃い色の口紅が映えるんだ。……塗っておきな」
そのほうが彼、ドキッとするだろうから……。
「ありがとうございました」
いつも最高のスタイリングを提案してくれること、そして助言を授けてくれたことに礼を言い、聡美は娘の手を引いて、現在この世で最も気になる男の元へと向かった。外の風が冷たくなりつつあったが、そんなことが気にならないくらいに、彼女は高揚していた。
――あなたのことばかり考えて過ごすよ。
歌うような美声が彼女の胸のなかでふるえていた。
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