「おっばけなんか、こっわくなーい!」
「なーい」
きゃははと笑いあう女の子たち。百瀬の娘である葉月がなぎちゃんなぎちゃんと慕っているのがなんとも愛くるしい。母猫とじゃれあう子猫のようだ。
横並びに座らせたのは正解だった。揃ってノンタンの絵本を覗き込んでいる。……が。
ボックス席にて。毎朝恋焦がれていたイケメンと肘と肘がくっつきそうな距離にいる……!
この事実に、彼女は眩暈が起きそうだ。そして問題は、肝心なことをまだ確かめられていないという点にある。――聞きたい。
でも、聞けない……。
「お待たせしました。おこさまパンケーキとおこさまうどんですー」
店員が食事を運んできた。一旦絵本をよけて、子どもたちの前に置いてやる。
「いただきまーす!」
ふたり揃って手を合わすさまが姉妹のようで……聡美の頬は緩んでしまう。
「葉月ちゃん、おうどん食べるのお上手ね」
「麺類、好きなんですよねえ」葉月に向けた台詞であったが百瀬が応じた。「うちはカレーやお寿司とかなんでも食べます」
「あら羨ましい」冷や水を口に含むと聡美は、「うちは。全然です。お肉とご飯以外はアウトで。保育園でならなんとか食べれるんですが、……野菜系が全然駄目で。毎月小児科の先生に渋い顔されてます」
聡美に倣い喉を潤した百瀬は、「小児科に通っているの? アレルギーとか?」
「いえ。便秘で」と聡美は声量を抑えて打ち明ける。「お腹痛いって言うから心配していつもの小児科行ったらビオフェルミン出されてそれで終わりで……それでも痛いって言うからどうしようって思いながらまた別の小児科行って……ちょっとそこの先生変わったところがあるからあんまし……なんですけど。触診したら『あらうんち溜まってるね。二年前にも便秘で来てるね』……って言われて。で。
そっから緩下剤飲ませ続けてます。最初は二週間に一回で、最近になってようやく月イチになりましたけど……一年半通ってます。混んでて待ち時間長いからしんどいんですよね。まあ子どものためだから仕方ありませんけど……」
「子どもが居るといろんなことがあるよねえ」苦労話にうんうん同意する百瀬。「うちなんか。公園で、どういう転び方をしたか分っかんないけど、額切っちゃって。三針縫って。仕事中電話来たんでこっちはびっくりでいっそいで駆けつけて。
あとから聞いたら麻酔の注射が相当痛かったみたいで。パパがまだ居ないから、彼女なりに気ぃ張ってたんですよね。……んでぼくの顔見た途端ぶわーって泣いてね……パパぁーって。……ああ思い出すだけで泣けてくる」
ぐず、と鼻をすする百瀬を見ているとあたたかな感情が湧いてくる。……と同時にまた別の彼女が分析に着手していた。……やはり。この男。
――シングルファザーだ!
「お待たせしましたー。ミックスグリルとパンのお客様ぁー」
「あはい」百瀬が挙手する。聡美は見逃さなかった。女の店員が、百瀬の顔を見た途端はっ、と息を呑んだのを……。美青年に対する女の反応は誰しも同じだ。
「スーラータンメンのお客様」瞭然であろうに問いかける店員に対し「はい」と答える聡美。勿論、女店員の顔は上気もしておらず。聡美は、自分が女であることを認識するのだった。
「じゃあ。いただきまーす」
「……いただきます」箸を取って貰い、聡美は礼を言う。「……ありがとうございます。ごめんなさい、随分待たせちゃって……」
「いえいえ」にこやかに答える百瀬。「うちの子、町田来ると必ずおもちゃとかマニキュア見て回るんで。全然待ったりなんかしてませんよ」
それを聞いて驚きで箸が止まった。「……葉月ちゃん四歳でしたっけ? もうマニキュアに目覚めてるんですか?」美凪もマニキュアは好きだがハマったのはつい最近でしかも綺麗に塗れないものだから飽きてしまった。一過性のものかと思いきや、百瀬の娘については話が別らしい。
「この四月に幼児クラスにあがったもんだから。年長さんがマニキュアやペディキュア塗ったりスカート履いてるのを見て触発されたみたいで」目尻に皴を寄せて笑う。三十代だな、と冷静なほうの聡美が判断を下す。「いい影響を受けている部分もあるんですけど、まさか四歳でおしゃれに目覚めるとは……四歳でも女の子は女の子なんですね……」
いくつになっても女は女。
不意に沸いた疑問を、聡美は口にしてみる。視界に、チョコペンでパンケーキにお絵描きをする美凪の姿が入り込む。がこのとき、聡美は歴然たる女と化した。……百瀬さんにとって、女は。
「いくつまでが『女』ですか……?」
手を止めた百瀬。
ゆったりと頬杖をつき。顔をこちらに傾けると、美しい笑みを注ぎ、……
「死ぬまで」
決定打だった。
歌うような一言。このひとの作り出すリズム。それらに引き寄せられ、魅了される自身を……ふるえるほどの余波を、感じていた。……好きだ。
この男に抱かれたい……。
それは女としての本能に起因する、抗えない希求であった。
聡美の反応を、舐めるように確かめる百瀬の姿が彼女の目に映り込む。……当然ながら美凪に対する対応とはまるで違う。彼自身、いくつでも女だと語っていたくせに、『女』と見なすのはあくまで本物の『女』なのだった。自我に目覚めぬ女は女と呼ばない。マニキュアやスカートのたぐいは所詮女の子たちのおもちゃなのである。ステイタスではない。
百瀬の熱い視線を注がれる聡美は、口紅を塗りなおしたのは正解だと思った。彼という男はじっくりと、雌の匂いを、嗅ぎとっている……。
数秒ほどのことが永遠に感じられた。このときも、先に口を開いたのは百瀬だった。「……『聡』くて『美』しいで『聡美』……」
聡美の頭蓋に百瀬の台詞が轟いた。――いま、なんと……?
「……あれ。当たった……?」いつも見せるのは『社会人』の顔。猛々しい雄の顔を初めて見せた百瀬はゆるりと、「……山かけだったんだけど。当たってた……? 割りとぼくね。昔っから、テストの山かけとか得意だったんだ……」
思い切って聡美は踏み込む。「――女性を口説き落とすのは」
「や。全然」そこでふ、と百瀬があどけない笑みを漏らす。「誤解してるねさとちゃん。ぼくは……。
『簡単』な人間なんかじゃない」
ふと子どもたちへと視線を流す。食べ終えるまでいますこしかかりそうだ。話す時間はたっぷりある。百瀬の内的な判断をも聡美は見守っていた。「……ぼくが、どれだけ、あなたのことを想って過ごしたのか。分かっていない……」
急転直下。
まさかの展開に聡美はついていけない。――が心臓は正直で。
どくん、どくん……。
傍に居る百瀬に聞こえてしまいそうなくらいに鳴り響かせている。恋の、リズムを……。
「最初からずっと、あなたのことが気になっていて……」突然の告白を百瀬は開始する。「初めて言葉を交わしたのは、そう……GW明けだったよね……ぼくが派手にすっ転んで。んであなたは『大丈夫ですか?』と手を差し伸べてくれた。あのときのあなたの不安げな顔が胸に焼きついて……」
当然のことながら二人は料理に箸を伸ばせない。それどころではない。
「いつもはっと息を呑んで控えめに『おはようございます』と答えてくれるあなたのことが愛おしくって。……名前も知らないのにこんなに好きになるなんておかしな話だと思うかもしれないけれど……」
「あたしも同じです」
「……ほんと?」
目を見開くと目が大きいなあ、と改めて実感する。この美青年を孤独にはしたくない。男の絡めとるような視線を感じつつ聡美は、「……はい。毎朝会うあなたのことが気になって……どうしようもなくて。
毎朝あなたの見せてくれる笑顔にときめいていて……」
「それはあなたが」ぱっ、と頬が赤く染まる。「いつもきれいで……輝いているから……」
ひょっとしたらこの青年のなかでとんでもなく自分は美化されているのではないか。『つや玉』のCMみたいに。
「せっかくの麺が伸びちゃうね」ここで百瀬は、健気に食されるのを待つ昼食の存在に触れる。「一旦中断して、食べようか……」
「はい」
「積年の想いを確かめあうのはそれからだ」
「……なっ」
声をあげた聡美にウィンクをして見せる百瀬。……彼女は実感する。どうやら自分は、とんでもない色魔獣(エロティカルモンスター)に、捕まってしまったらしい、と……。
「あなたがこの店に来たとき、ぼくがあなたのどこを見ていたか……分かる?」
食器を片付けてもらいコーヒーブレイク。
百瀬と一緒にブラックコーヒーにありつく聡美に百瀬が問いかける。
首を傾げる聡美。「……顔とか?」
子どもたちは今度はまっしろなお絵描き帳にお絵描きを始めている。用意のいい百瀬は美容室に行く際はいつもこの手のグッズを持ち歩いているとのこと。長いまつげを伏せた百瀬が、呟くように、「……の次の次」
「……脚とか」
「や……、正直、胸……」
――正直な男だな。
聡美は苦笑いを漏らした。昔テレビ番組で見た気がする。男は真っ先に女のどこを見るのか……第一位が、胸だった。
小さいほうではない。そこそこボリュームがあるので、その手の視線に聡美は慣れている。
しかしながらこのお店で百瀬と再会した際、……いやらしさなど微塵も感じられなかった。
真剣さを取り戻した百瀬が白状する。「三番目に見たのは、あなたの、左手の薬指……」
「――あ」盲点だった。そうだ。ひとは自分が知っていることを自然相手も知っているものだと思い込む傾向にあるが……。聡美が離婚していることをこの青年が知るはずもない。毎朝会う通りすがりの女の手を不自然さを伴わないかたちで凝視するのは難しい。彼は背が高く。それこそお姫様の手を取るなりせねば結婚指輪の所在など確かめようがない。
「すると、あなたは……」聡美はここで声を潜め、「道ならぬ恋に踏み込んでしまったと……それでずっと悩まれていたと」
「そうです」
「やっだ」あはは、と聡美は肩を揺らす。「なにそれ。聞いて貰えれば全然答えたのに。やだもう。それでお互いずっと誤解して思い込んで……袋小路に入り込んだ悲劇の主人公気取ってたってわけね。やだやだ」
「……誤解であってよかったよ」
頬杖をつきこちらに微笑みかけるさまが一枚の絵画のようだ。漆黒のさらさらな髪。透き通るような白肌。それらの織りなすコントラストに聡美はいっとき魅了された。
――美しい、この男は。
見惚れる聡美から視線を譲らず青年が唇だけを動かす。
「――え。なんて?」
目だけで青年は笑い、「――ないしょ」
すると立てた指を一本、そっと聡美の唇に押し付け、……
「――」
ある台詞が彼女の胸を射抜いた。
「な。な……!」
金魚のように口をぱくぱくさせる聡美の反応を可笑しげに青年が笑う。「あなたって本当、……思ったこと全部顔に出んのね。かわい……」
「どうせ。馬鹿正直ですよ」聡美はぷぅと頬を膨らます。「毎朝、毎朝、あなたのことばっかり考えて……。なんて罪作りな妻子持ちなのかなって悩んでて……会社のひとに……あだ名がマングローブって言うんですけどそのひとも『なに目的かね』って怪しんでて……カルトとかマルチのたぐいじゃないといいねってぼやいてて……だからますます自信無くして……」
「安心してさとちゃん」手が――伸びてくる。骨ばった、されど繊細な指先が聡美の前髪の流れをなぞり、「ぼくはそのたぐいは一切やらない。パチもスロも競馬も麻雀も一切やらないから、安心して?」
「じゃあどうして別れたの」
ふとした疑問が、つと唇から滑り落ちることがある。これがそのときだった。
ふう、と息を吐くと、百瀬は視線を一旦子どもたちへと流したうえで、紙ナプキンを机に置くと、取り出した万年筆でさらさらと文字を書く。
『妻の浮気』
――えっ。
驚きを顔に出す聡美。それを確かめた百瀬は丸めた紙をポケットにしまい、「んで……出てった。まだあの子がゼロ歳の頃にね……」
そんな。
事実はあまりにも衝撃的だった。まさか。乳飲み子を捨てる母親が居るだなんて……。
きゃっきゃと美凪と笑いあうその姿が、気の毒なものに思えてくる……あの子は。
本当のママを知らずに、育ってきたのかと……。
「それ以上の話は、またあとで」重たさを取り払うかのように、笑みを見せる百瀬。「公園でこの子たちが遊ぶのを見ながら教えたげるよ」
「……はい」知らなかった。百瀬は、ひとりで、……耐えてきたのだ。子育ての苦しみと。妻への憎悪と……。
聡美が、元夫を憎む気持ちがないかと訊かれれば答えはひとつだ。だが普段、愛おしい美凪と接していられるから、単に忘れ去ることが出来るだけであって……。ないわけではない。むしろ、実在する。
煩悶を抱え込むのはこの世に自分だけではないのだ。
聡美はそのとき考えた。例えば、……百瀬が、地方出身者でなく、親元でぬくぬく育ってきた可能性も否定出来ない、と。だが別の怜悧なる聡美がそれを否定する。……この男は。
ひとりで子育てをしてきている。その匂いが、孤独が、ちょっとした言動から言の葉から、読み取れるのだ。
仕事中に呼び出され安否を確かめるまでに迫るあの恐ろしさ。無事なのか。大丈夫なのか。……なにをさておいても娘を優先するあの気持ち。焦燥。
それを共有するという意味において、ふたりは同志であった。恋人関係を構築する以前に。
会話をせねば分かりあうことは出来ない。所詮、他人同士なのだから、……という考え方をする人間も存在するが。聡美と百瀬はその種の人間ではなかった。目と目を合わせ、感情を読み取り、想いを共有し、それだけで幸せに浸ることの出来る人格の持ち主であった。
幸福の共有。
それは、元夫とは分かち合えるものではなかった。子育ての懊悩そして孤独を知る者でなければ……。
カップで手のひらをあたため。濃いいろの液体を覗き込む。……映り込む自分の姿は、いつもと違って見えた。何故ならば。
恋を、しているから……。
それからは、彼らは言葉少なだった。どこの母親もそうするように、子どもたち主体で会話は動いていった。
苦痛ではなかった。楽しかった。百瀬とちいさなことで笑いあい、共有できるその時間が……。
そのあと公園に行っても結局、百瀬が離婚の話を蒸し返すこともなく。互いに、幸福に浸りながら時間を過ごした。
去り際、連絡先を交換した。また次の土曜日に会おうと約束した。今度は、百瀬の家に……。
「ばいばーい! はーちゃーん!」……娘も葉月や百瀬のことを気に入ってくれたようだ。ほっとした。先ずは一歩前進といったところだ。美凪は二人の姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。
前を向いた美凪に聡美は訊く。「楽しかった?」
「うん! 楽しかった!」
「そっか。よかった。また来週会えるよ」
「うん!」喜ばしげに美凪。「はやく土曜日にならないかなー」
「そうね」そうして電車に乗る。……と。
見慣れたはずの景色が、まるで別のもののように見えた。緑も空のいろもぐっと強さを増す。生命があらゆるいのちが、彼女の眼前で輝いて見えた。されど透明なガラスに彼女のこころが映し出すのはあの男の姿。
つめたい指先を、うるんだ聡美の唇にそっと添え、言い放ったその一言。
『――あなたの感触、気持ちいい』
歌うように語ったあの男。聡美のなかのど真ん中に居座り、そこから頑なに動こうとしない。
恋の魔力の正体。
三十八年生きてきた聡美をもってしてもその破壊力は抜群で。まったく未知の領域であった……。
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