内装はとても綺麗で、木の柱や欄間には繊細な彫刻が施されている。畳は新しく張り替えられたかのように清潔で、障子の向こうからは柔らかな月明かりが漏れていた。
置かれた花瓶には季節の花が活けられ、どこか賑やかな雰囲気が漂っている。
だが、そこにいるはずの人の気配は、何一つ感じられなかった。
リクは肩をすくめ、慎重に言う。
「誰もいない……いや、ここにいるはずの何かが、俺たちを見ているような気もする。」
ロビンが鋭く周囲を見回しながら言う。
「気配がないからこそ怖い……気を抜くな。」
アイビーは《幽斬斧》を構え、足音を殺して前へ進む。
静かな和の空間に響く三人の足音だけが、凛とした緊張感を増していった。
静かな廊下の片隅に、ひとつぽつりと木製の看板が立っていた。
そこには達筆な筆文字で「お荷物はこちらに」と書かれている。
看板の隣には、ひっそりと佇む懐かしい匂いのする古びたロッカーがあった。
金属の冷たさと木の温もりが入り混じったような、不思議な存在感を放っている。
リクがそっと近づき、手を伸ばす。
「このロッカー、動くのか?」
ロビンは眉をひそめながら、辺りを警戒しつつ言った。
「何か仕掛けがあるかもしれない……慎重に調べよう。」
アイビーはロッカーの匂いを深く嗅ぎ込む。
「懐かしいって言うか……なんか、落ち着く匂いだね。」
三人の視線が、そのロッカーに集まる。
リクは慎重にロッカーの表面をスキャンし、解析デバイスを取り出した。
画面に映し出された結果を見て、眉をひそめる。
「…変わった仕掛けはない。素材も構造も、ごく普通の現実世界のロッカーと変わらないみたいだ。」
ロビンが手を腰に当てて言った。
「なんだ、それじゃあ罠とかじゃなさそうね。…でも、どうしてこんなところに置いてあるんだろう?」
アイビーはまだ匂いを嗅ぎながら呟く。
「この匂い……なんだか昔の学校の匂いに似てる気がするんだ。」
リクは首をかしげてからロッカーの鍵穴を覗き込む。
「鍵はかかってない。開けてみるか?」
ロビンが頷く。
「うん、何か手がかりがあるかもしれない。」
リクがロッカーの扉をゆっくりと開け始めた。
リクたちが先へ進もうとしたその時、アイビーが無意識にバッグを持ったまま歩き出す。
しかし、突然、見えない力に弾き飛ばされ、壁にぶつかってしまった。
「痛っ……!」
リクが慌てて駆け寄る。
「アイビー、大丈夫か?」
アイビーは立ち上がりながら、周囲の空気を見つめて言った。
「なんだ……? まるで何かに拒まれてるみたい。」
ロビンが冷静に分析する。
「ここはどうやら、武器や荷物を置いていかないと先に進めないみたいね。」
リクはロッカーに目をやり、バッグと神器の斧《ユルグレイヴ》を置くことを決めた。
「仕方ない。ここで一旦全部預けよう。何か理由があるんだろう。」
アイビーはふっと微笑んだ。
「不思議なルールだけど、仕方ないね。」
三人はそれぞれの荷物をロッカーに収め、扉を閉めた。
すると、空気が一変し、前方の大きな扉がゆっくりと開き始めた。
ロッカーに荷物を預けて扉をくぐると、すぐ先に現れたのは――更衣室だった。
清潔感のある木造の廊下を進むと、左右に分かれた扉が見える。上には木札で「男子」「女子」と彫られていた。
更衣室の手前、壁に掛けられた小さな看板が目に入る。
『この中で浴衣にお着替えください』
「……浴衣?」
リクが首を傾げると、ロビンが看板をじっと見つめて言った。
「どうやら“ドレスコード”があるらしいわね。この先に進むには、決められた格好じゃないとダメみたい。」
「お着替えください、って随分丁寧な命令だなあ……」
アイビーが苦笑しながら女子更衣室の方を指差す。
「ま、言われた通りにしてみる? ドリームコアってば、こういう“舞台”に凝ってるんだね。」
リクも小さく頷いた。
「…警戒は必要だけど、とりあえず従おう。」
三人はそれぞれ更衣室に向かっていく。
どこか非現実的なほど静かで、美しい、しかし不気味な空間の中で――彼らは次の“演目”への準備を始めた。
更衣室を抜けると、目の前には長く続く廊下。
障子越しにほのかに灯る橙の明かりが、柔らかく木の床を照らしていた。どこか懐かしい和の香りが、空気に淡く溶け込んでいる。
先に姿を現したのはロビンだった。
黒地に白い松の模様が入った浴衣を着ており、肩幅の広い体格にしっくりと馴染んでいる。普段の装甲姿とは違って、精悍さと落ち着きが引き立っていた。
「お、悪くないだろ」
ロビンは片眉を上げ、軽く帯を直しながらリクに声をかけた。
「うん。……意外と似合うね」
リクも薄い青緑色の浴衣に着替えていて、彼の静かな佇まいと和の雰囲気がよく合っていた。
「おっまたせーっ!!」
勢いよく引き戸が開き、アイビーが飛び出してきた。
赤と白の花柄が施された華やかな浴衣に、帯は金糸の入った橙色。子供らしい無邪気さと、少しだけ大人びた雰囲気が同居していた。
「わっ、アイビー……すごく似合ってるよ」
リクが微笑んで言うと、アイビーは腕を広げてぐるっと一回転した。
「だよねだよね〜! こっちの方が動きやすいし、気持ちいい〜!」
ロビンも鼻を鳴らして笑う。
「ははっ、ま、戦闘服よりはずっと可愛いな」
三人は浴衣姿で並びながら、しばしの穏やかな時間に身を委ねていた。
アイビーが小首を傾げたその時だった。
廊下の横に並ぶ障子戸の一つが、**スッ……**と音もなく開いた。
誰もいない――そう思った瞬間、床板がきしむ音がした。
透明な“何か”が、確かにそこに立っている。
見えないその姿が、淡く空気を歪ませていた。
そして目に入ったのは、浴衣を着た透明人間――
いや、正確には浴衣だけが浮かび上がっている。
その袖口から伸びるのは、白い手袋に包まれた手。
足元には、草履の代わりに革靴のようなものを履いているのが見えた。
「っ……!?」
ロビンが即座に一歩前へ出るも、透明人間は無言のまま、まるで舞でも踊るかのようにしずしずと近づいてくる。
リクは背筋を凍らせながら呟いた。
「……質量がある。完全な幻影じゃない。これ、“いる”……!」
透明人間は一歩、また一歩と近づくと、三人の前で立ち止まり、手にしていた木札をストンと落とした。
そこには達筆でこう書かれていた。
「お客様、まもなく宴の時間です」
「え……?」
戸惑う三人を余所に、透明人間はすっと身を翻し、また静かに襖の奥へと消えていった。
まるで最初から存在などしていなかったかのように。
しん……と静まり返った廊下に、 鈴の音だけがこだました。
扉が静かに開かれると、そこに広がっていたのは、どこか格式高い応接間のような空間だった。
畳ではなく磨き上げられた木の床、その中心には、重厚感のある大きな木製の机が鎮座している。机の前には、ちょうど三人分の椅子が整然と並べられていた。
「まるで……招かれてるみたいだな」
リクがぽつりと呟く。
部屋の隅には小さな盆栽と、掛け軸が飾られている。壁には時計があるが、針は止まったまま動いていない。
「誰が用意したんだろうね……」
アイビーは警戒しつつも、机の上に目をやる。そこには何かの紙が置かれているようだった。
アイビーが机に近づき、そっと紙を手に取る。
文字は丁寧な筆跡で、まるで料亭の献立のように美しく綴られていた。
「……“お楽しみください”って……だけ?」
アイビーが眉をひそめる。
紙にはそれ以上の情報はなく、差出人の名も印も書かれていなかった。
「……余計に不気味だな」
ロビンがぽつりと漏らす。
リクは部屋の中をぐるりと見渡しながら、分析モードのような目つきになっていた。
「なにも仕掛けはない……が、この机と椅子、どう見ても“座るように”って誘導してるよな」
「えー、でもこれで変な催眠とかかかったら怖くない?」
アイビーの言葉にロビンも小さくうなずいた。
だが、部屋に他の出口はない。先に進むには、この「席につく」しかないらしい。
「……お楽しみって、何が始まるんだよ……」
リクは慎重に椅子を引き、腰を下ろした。
リクたちが机の前で戸惑っていると、
すっと背後のドアが開き、またあの透明人間が現れた。
浴衣を着て、手袋と靴をしっかりと身につけている。
姿は見えなくとも、その立ち姿からはどこか几帳面な所作が感じられた。
「……少々お待ちくださいませ。」
透明な声が静かに響くと、透明人間は一礼して、奥の厨房らしき引き戸の向こうへと姿を消していった。
リクがぽつりと呟く。
「……まさか、本当に“おもてなし”される流れなのか……?」
アイビーがちょっとだけわくわくした様子で椅子に腰かけた。
「じゃあ、まさかこれ……ご飯出てくるのかな?」
「こんな異常空間で出されるご飯、まともなはずないだろ……」
ロビンが肩をすくめつつも、背筋を伸ばして椅子に座る。
しん、と静まり返る空間に、奥からかすかに包丁の音や食器の音が聞こえてきた。
「……マジで厨房、動いてる……」
ほどなくして、再び厨房の扉がすっと開いた。
カチャ、コト……カチャ、カチャ……
足音ひとつ立てずに、透明人間が料理を運び始める。
見えない手が木の盆を器用に持ち、ひとつずつ丁寧にテーブルの上へと料理を並べていく。
どれも和風の美しい品ばかりだ。
湯気を立てる土瓶蒸し、艶やかな照りのついた煮魚、山菜のお浸し、色とりどりの漬物に、ふっくらと炊き立ての白米。
「……うわぁ……」
思わず、アイビーが目を丸くした。
「……本当に食えるのか……これ?」
リクが一皿を手に取り、慎重に匂いを嗅ぐ。
すると、ふわりと出汁の香りが鼻を抜け、心が安らぐような感覚が広がった。
「これ……完全に現実と同じ成分……」
「ってことは、食べても大丈夫……?」
ロビンが言いかけた時、透明人間がもう一度だけ姿を見せて、礼儀正しくお辞儀した。
「……お楽しみくださいませ。」
そして、音もなく姿を消した。
「いただきまーすっ!」
元気に箸を伸ばしたアイビーだったが――
「いっ……⁉」
次の瞬間、**ピシィッ!**という音と共に、彼女の手がビクリと跳ねた。
「アイビー!?」
「っつ……あ……あぁぁあっ……!?」
アイビーの手の甲がみるみる紅く腫れ、黒い血管のような筋が浮き上がってくる。
アイビーの手の異変に皆が動揺する中、ふと頭上から一枚の紙がひらりと落ちてきた。
静かな食堂に、紙がテーブルに舞い落ちる音だけが響く。
リクがそっと拾い上げて読み上げた。
「『テーブルマナーには気をつけてください』……だって?」
ロビンは眉をひそめて紙を見上げる。
「なんだよ、こんな時にマナーの注意かよ……」
アイビーも苦しげに手をさすりながら、苦笑交じりに言った。
「……でも、確かに油断はできないってことかもしれないな。」
アイビーが気を取り直して、お茶を手に取ろうとしたその瞬間、再び鋭い激痛が手に走った。思わず手を震わせてしまう。
「うっ…また、痛い…!」アイビーが顔をしかめる。
「やっぱり……テーブルマナーを守らないと、何か罰があるのかも」とリクが静かに言った。
「こんな状況でマナーを強制されるなんて…でも、守らないと大変なことになるのは間違いないね」とロビンも警戒する。
テーブルに置かれた料理に目をやると、皿や箸の位置、食べる順番に何か決まりがあるようだ。
アイビーは痛みをこらえ、慎重に手を動かす。
「よし…次はちゃんと気をつける」と小さく決意を呟いた。
アイビーは注意深くテーブルマナーを守りながら、ゆっくりと食事を進めていった。
激痛はもう走らず、むしろ料理の味に集中できる快適さが戻ってきた。
「ん…これ、すごく美味しい…!」アイビーが笑顔を見せる。
リクも続けて口に運び、思わず「これは本当に美味い」と感嘆の声。
ロビンも頷きながら、「こんなに食べやすくて、味も抜群なんて…ここ、何か秘密がありそうだな」と言った。
食事が進むにつれ、緊張は少しずつ解けていき、3人はこの不思議な空間の中でも安らぎを感じ始めていた。
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