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今度は屋根裏部屋ではなかった。辺りは墨に沈んだように真っ暗で、ユカリがよく嗅ぎ慣れた木々と葉と湿った土の匂いがする。今いるのは村の東に鎮座する森のどこかだ。
小さな生き物と魔性の気配がユカリの視界には決して入って来ないように周囲を取り巻いている。古の頃よりここに棲み、昔からユカリを知っている年老いた妖精たちは人間の備えていない感覚で別れの予感を抱いていた。いつもなら何か悪戯をしてやろうと悪知恵を巡らせる彼らもこの時ばかりは去り行く幼子の行く末に思いを馳せていた。
扉は土を被さって、魔法の力でもって長年巧妙に隠されていたらしい。ユカリは再びきっちりと扉を閉めると、土を被せて隠蔽する。
その暗さと肌寒さにユカリは少し慌てる。焚書官チェスタが宣言した日の入りはまだ少し先だ。しかし東のウリオの山は黒く、西の空は赤らかに染まり、人の間のいざこざなど気にもせず神秘の夜に手招きをしている。あまり猶予はない。
問題は、とユカリは考える。
魔導書を渡すわけにはいかないばかりか、一人でにユカリのもとに戻ってくるので、そもそも譲り渡すことができないということ。
魔導書を渡さなければ焚書官たちによって村を丸ごと燃やし尽くされてしまうということ。
ただ魔導書を持って逃げたのでは義父や村を人質にとられてしまうということ。
それらを解決しなくてはならない。今のところ、それらを一挙に解決するような奇策は思いつかない。であれば頼りになるのは。
ユカリは現世において魔導書と恐れられる、その書物をあらためて観察する。まるで幼い日に大事にしていた人形を抱きしめた時のようなどこか懐かしい気持ちもあれば、自分の体が大きくなったために同じ人形だとは思えないようなどうにも馴染まない感触もある。
表紙には歪な文字で『わたしのまほうのほん』と書いてあるらしい。いくつかの字が間違っているが、似た文字に置き換えれば読み取れると分かる程度には前世の文字が読めるのだと分かった。
魔導書を開く。
『まほうしょうじょゆかり』と書いてある。その下に描かれた絵で、ユカリはこの魔導書を作り上げた前世のユカリはまだ幼い子供なのだと察する。文字が間違っているのもそれが原因だろう、と。
描かれているのは少女の絵だ。主に桃色と紫色で描かれ、華やかな衣装を身にまとっている。右手に掲げている短い杖には宝石が据えられ、桃色の髪には五芒星を象った髪飾りをつけている。そしてとても楽しそうで幸せそうな笑顔だ。
その絵の下にはやはりたどたどしい文字で何か書かれている。ユカリは苦労しいしい何とか読みこなした。言いたいところは何となく分かる。
要するに魔法少女は七つの魔法が使え、そしてそれはとても素晴らしい魔法ばかり、ということだ。とりあえず今使えそうな魔法を探そうと次々にページをめくる。しかしさっきの文言に反し、魔法は二つしかなかった。それ以外のページにも確かな力を感じるが何も書いていない。
一つ目の魔法は変身の魔法。強く賢く可愛い魔法少女になるための基本中の基本だそうだ。
ユカリは早速実践する。とても簡単な魔法だ。ただ姿を思い描くだけ。呪文も道具もいらない。こんなことで変身などという高度な魔法が可能なのか、とユカリは疑問に思うが、試してみるほかない。
集中し、魔導書に描かれている少女の姿を心に思い描く。しかし変身しない。しばらく待っても何の変化も起こらない。焦りを何とか心の奥に押し込める。まだ足りないのであればと、より具体的かつ詳細な姿を想像する。
布地は淡い桃色に艶めく紫に染められ、肌触りはこの世のものとは思えない滑らかさ。愛くるしい飾紐で飾られた靴は、厚みのある踵ばかりか靴底にまで神秘的な彫り物が施されている。豊かな縁飾が多彩な影を造り、細やかな綾織が繊細な綾を生む。優美にねじれる蔦模様の金刺繍。左手には不思議な文様の織り込まれた手袋。髪飾りの五芒星は妖しくも控えめに輝く宝石で彩られ、対照的に右手に掲げる杖の戴く紫水晶のような宝石は目もあやな輝きを放っている。
我ながら魅力的かつ具体的な空想だとユカリは思った。しかしまだ足りないようだった。魔法の欠片も感じない。
時刻が迫っている。不幸な想像がにたりと笑みを浮かべ、近くの木の後ろでユカリの様子をうかがっている。
泣きそうになるのをこらえる。魔導書の中で魔法少女は笑っていた。
【魔法少女ユカリは笑っていた】。
眩い閃光と共に身につけていた衣服がほどけ、新たに紡がれた想像の糸が魔法少女の衣装を織り上げていく。服も靴も手袋も髪飾りも心の内から作り上げられ、ユカリの身を覆っていく。最後にいずこかより現れた杖はそこが定位置であるとでも言うようにユカリの右手に収まった。腰には魔導書を留め置く金具までついている。
異変はそれだけではない。まさに魔導書に描かれていたような姿になっている。衣服だけでなく身体まで変化しているのだ。すらりと伸びた手足は縮み、この森を走り回って引き締まった体の起伏が失われている。十四歳にしては大きい狩人の娘は十四歳にしては小さい魔法少女になった。
元の姿に戻れるのか多少不安にはなったが、今は都合がいいとユカリは思った。
二つ目の魔法もまたとても簡単な魔法だったが、気を散らす風が吹く。ユカリの前髪を掴んで弄ぶ。
それは今朝感じた西からの風のように思えた。同じ風だという不思議な感覚がユカリにある。遥か西の果てから、大陸を横断してやってくるような強い風でありながら、草原を吹き渡る時には可憐な露草を慈しむように小さく揺らす優しい風でもある。やはり普通の風とはどこか違う。
ユカリは二つ目の魔法をその風に試す。
「あの、こんにちは」と風に向かってユカリは【喋りかけた】。
すると風が驚いた様子で吹きかけてくる。
「人間に話しかけられるの初めて」
「よかった」とユカリはひとまず安心する。魔法少女に変身する魔法を使ってもなお、物と話す魔法など到底信じられなかった。「私も風に話しかけるのは初めてです」
「こんにちは。まだこんばんは?」と風がのんびりと答えた。
少し幼い声に聞こえる。生まれたばかりの風ということなのかもしれないが、今はあまり深く考えないことにした。
「まだ早いかなと思って」とユカリは言う。風と会話するというのは、どこを見ればいいのか分からないし、距離感もつかめなくて戸惑う。「あなたは、風、なんですね?」
「見ての通り」
「ごめんなさい、姿はちょっと見えなくて。私はユカリです。はじめまして。あなたは?」
「野原を吹き渡る緑風、遥か西方より来る者、噂と使命を運ぶ風、救いをもたらす者の名を背負う者」
風ならちょうどいいかもしれない、とユカリは思った。
「あの、グリュエーさん。少しお手伝いをして欲しいんだけど」と言ってユカリはどこかに向かって上目遣いをした。何となく上の方にいる気がしたのだった。上目遣いなんて久々だ。
「うん。グリュエーのことはグリュエーでいいよ」と風のグリュエーはためらいなく答える。「グリュエーにできることなら何だって」
「え? えっと」と拍子抜けし、ユカリは少しどもる。「いいの? グリュエー」
「もちろん。手伝って欲しくないなら手伝わない」
「そんなことない。手伝って。とにかく時間がないから道中説明するね」
初めの一歩は、地下室から離れるための一歩だけは少し重かった。
ユカリは暗い森を走り抜ける。とても慣れ親しんだ森のはずだが、自分の体が小さいためか、見知らぬ森に放り出されたような気分になる。それに足が短くなって足が遅くなってしまったと気づく。これくらいの身長だった頃はまだ狩人の森に入ることも許されなかったことを思い出す。
ユカリは気分が高揚していることに気づく。心の底から無限に幸せが溢れてくるような気分だ。今の状況にはとても似つかわしくないが、どのような試練も乗り越えられそうで、どのような怪物にでも立ち向かえそうな、そんな気分だ。