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太陽が丘の頂にひっかかり、なだらかな稜線を赤く激しく燃やしている。それは昨夜仕留めた狐の血のように赤かった。
ユカリは静まり返った墓場に一瞥を送り、獲物の臭いを嗅ぎつけた猟犬のように村へと急ぐ。
村は力強い怒声に燃え盛り、鬱々しい涙声を立ち昇らせていた。破壊を恐れ、安息を求める人々の騒ぎを熱風が掠奪し、村全体へと追い立てている。
ユカリの生家が邪なる炎に飲み込まれていた。自然に存在する話の通じない乱暴者の炎ではなく、意志と目的を持って破壊する蛮族のような炎だ。それは魔を宿した炎であり、敵国の歴史ある城塞を無慈悲に打ち崩すための炎だ。
濛々と上る黒い煙は不遜にも夜空の星々を覆い隠してしまう。まるでそれが夜の神々のための神聖な儀式であるかのように、火に包まれたユカリの生家を黒衣の焚書官が二列になって取り囲んでいる。
予感していたこととはいえ、眼前に示された平穏の破壊にユカリの体は石を詰め込んだように重くなった。呆然と立ちすくむユカリは声を出さずに涙ぐむが、拭う間もなく吹き付ける熱風で乾いてしまった。
派手で奇妙な格好の、幼い少女に変わり果てたユカリに気づく者もいないほど、辺りは騒然としていた。何人かの村人が袖をまくって焚書官に食って掛かっているが、黒衣の僧侶たちはまるで意に介さず、反抗的なものを魔法で縛り上げている。
チェスタもその場にいた。何の感慨もない様子で巨大な火柱を眺めている。炎を戴く山羊の仮面はユカリの生家を呑んだ炎の明かりを受けて、本当に燃え上がっているかのように輝いている。そして件の産婆ゼンナがチェスタにすがり付いていた。
「ここまでするなんて聞いてないよ」というゼンナの叫びで、ようやく焚書官たちが強硬になるほど確信を持っていた理由がユカリにも分かった。
嘆いていても仕方ない。やるべきことは変わらない。ユカリはグリュエーに押し上げてもらって、向かいの家の屋根によじ上った。
そうして今度はグリュエーにできる最大の風力で無慈悲な焚書官たちに吹きつけてもらう。ユカリが想像していた以上の強力な風が唸りをあげ、その両の腕を大きく広げて焚書官たちに躍りかかると多くがなすすべもなく押しのけられ、何人かは地面を転がった。最も多く倒れたのが村人だったのは失敗だ、とユカリは反省する。しかし当のチェスタはびくともせず、黒衣をはためかせてゆっくりと振り返る。
どころかチェスタはユカリの姿を認めると、風の吹く方へ向かって足取り確かに歩き出した。まるで昼下がりの静謐な森で散歩でもしているかのように難なく歩いている。対照的にその身に纏う黒の僧衣はとどめを刺される前の獣のように暴れはためいていた。
ユカリの生家を包む炎は、救いをもたらす祈りに抗う悪霊のように、風に煽られてさらに暴れ狂い、勢いを増している。しかし焚書官チェスタは何事でもないかのように軒下までやってきて、屋根の上に立つユカリを、物珍しい鳥でも見つけたかのように見上げる。
「この村の者ではありませんね」とチェスタは少しの気後れも見せずに朗々と言い立てた。「この風、使役しているのでもなければ、追い立てているのでもなさそうです。幼い見た目に反して相当に名のある魔法使いとお見受けしました。我が名はチェスタ。貴女は何者ですか? 我々に何の御用ですか?」
「私は魔導書収集家」とユカリもまた負けずに言い返す。「またの名を魔法少女ユカリ! その人だ!」
「そうなの?」とグリュエーが呟いた。
少しひやっとしたが、チェスタは気づいていない様子だ。グリュエーの声はユカリにしか聞こえていないらしい。
「魔法少女?」とチェスタが怪訝な声音を出す。「世に災いを為す邪なる魔導書を集めるだなんて、それは神をも恐れぬ邪悪な行いですよ」
ユカリは大人をからかう子供のように、首をかしげてにやりと笑う。
「それはそれは、救済機構がそうだったとは思わなかったよ」
「我々は封印しているのです」というチェスタの声色には明らかな苛立ちが含まれていた。「災いを恐れることなく、弱く儚い信徒を守るために。そして、いずれ救いの乙女が降臨するまでに、この世界を浄化しなくてはなりません」
「ふっふっふ」とユカリはわざとらしく笑う。「あなた達の理念だか目的だかは知らないけど、少なくとも今回は封印できそうにないけどね」
チェスタが鉄仮面の重そうな首をかしげる。「どういう意味ですか? そもそもなぜ我々に手を出したのですか? 何を企んでいるのでしょうか」
ユカリは今のところ思いつくままに話しているだけだった。とにかくこちらに注意を惹きつけ、この村にはもう魔導書が無いと確信を持ってもらわなくてはならない。
「そのままの意味だよ。私はここに宣言する。貴方たちはこの村で望むものを手に入れることはできないんだ!」
特に意味もなく意味ありげに放たれたその言葉の意味をチェスタは測りかねているようだった。
「貴女には色々と話を聞く必要がありそうです」
そういうとチェスタは僧衣の中から額縁のようなものを取り出した。しかし飾られているのは絵や賞状ではない。白紙の羊皮紙だ。ユカリにはその存在に特別な気配のようなものを感じた。
「それ魔導書じゃん!」とユカリは鋭く指摘する。昔に義母が言っていた言葉を思い出す。救済機構の意図はともかく彼らも他の魔導書所持者や所有国と同様にそれを利用している、と。
「いいえ、これは魔導書ではありません」とチェスタは臆面もなく言いのける。「大聖君より賜りし、聖典です。もちろん魔導書よりも遥かに強大であり、聖なる存在です。貴女は魔導書を集めると啖呵を切っていましたが、これを前にした落ち着きぶりを見るに、実のところ魔導書がどれほど力ある存在かご存じないようですね。愚かしくも白昼大陸の諸国家はあれを奪い合う為に相争っているというのに」
魔導書そのものだと言っているような口ぶりだったが、少なくとも言葉の上では決して魔導書と認めるつもりはないらしい。
唐突にユカリに向けて直線的な強風が火の粉を従えて吹き、堪えきれずに数歩退く。
「グリュエーなの?」
「それはグリュエーじゃない」とグリュエーが反論する。
気が付くと目の前にチェスタが立っていた。そうしてユカリの顔に向けて指をさす。得体のしれない感覚。なみなみと心を蓄えた器が重く硬い蓋で閉められたような奇妙な感覚。
「吹き飛ばして! 彼方まで!」と絞り出したユカリの言葉にグリュエーが呼応する。
さながら爪を立てて牙を剥いた獣のように、風が唸りを上げて目の前の焚書官に飛び掛かる。今度はチェスタも手をかざし、風に抵抗するようなそぶりを見せる。チェスタは黒い僧衣をはためかせつつ、いくらか退いたが、しかし屋根の端にとどまった。
「それが魔導書の力?」とユカリは言う。
「聖典ですが、貴女がまだ生きているということから察していただきたいものですね。それに力は見せびらかすためのものではありません」
興味深い物事を教わった子供のようにユカリは微かに頷き、同意を示す。
「それはそうかもね。でも貴方たちだって魔導書を集めるんでしょう?」
「貴女と違って」とチェスタは吐き捨てるように言う。「崇高かつ尊い使命であり、救いを求める民草のための慈善的で利他的なる活動です」
「ふぅん、そうなんだ」とユカリは興味がなさそうに言って魔導書『わたしのまほうのほん』を取り出し、これ見よがしにめくる。「お互いに先は長いね。そっちは何冊集めたの?」
チェスタの口が開きっぱなしになり、それでいで自身の持つ魔導書を固く握りしめている。
「それが、魔導書だというのですか、そのような安っぽい書物が」
「でも美しいでしょう? こんなの見たことある?」
ユカリは見せびらかすように何枚か捲って見せる。その純白の紙は炎に照らされてさらに輝きを増すようだった。
「本物、なのですか?」と言うチェスタの声は震えていた。
「試してみる?」とユカリは微笑む。「あまり力を見せびらかしたくはないんだけど、なんてね」
そう言って、ユカリは再び留め具に魔導書を戻す。
「風のグリュエーが言うのもなんだけど」とグリュエーが耳元で囁く。「何でそんなに煽るの?」
ユカリはチェスタに聞こえないように答える。「私に意識を向けて欲しいんだよ。『この村にはもう魔導書はない。この女から魔導書を奪わなければ』とチェスタに認識してもらう必要があるの。さて、そろそろ逃げるよ。追い風頼むね、グリュエー」
「馬鹿な」とチェスタは忌々し気に言い、そして今までで最も大きな声で怒鳴る。「本物なわけがない! 救済機構だけじゃありません。たった一枚の為に連盟や大王国が戦争を起こし、あまたの魔法使いが血眼になって探し、奪い合っている魔導書の完成された一冊をただの少女が持っているなどということが!」
「魔法少女ね。魔法少女ユカリね」
「それをここで手に入れたのですか? その完成された魔導書をこの辺鄙な村で」
「えーっと、最後の一枚をね。さっき完成させたんだよ」
あまり大それたことにはしないほうが良さそうだ、とユカリは判断した。
「貴女はその中身を支配できているのですか?」と言うチェスタの声はまだ震えているが力強い。
ユカリは一瞬どきりとする。まさか七つの魔法の内の二つしか分かっていないことがばれているわけではないはずだが。
「出来てるよ。さっきの風だって手加減したんだからね。全力だったらこの家だって吹き飛ばせるんだから」
わずかな沈黙の後、チェスタが呆れた様子でかぶりを振る。鉄仮面の角と炎がきらきらと光を反射する。
「やはり貴女は魔導書の恐ろしさを分かっていないようですね。魔法少女だか何だか知りませんが」
「まあ失礼ね。貴方の方こそ知っているの? 魔導書の恐ろしさ」
チェスタはため息をつき、己の仮面を剥いだ。野次馬と化した村人たちから悲鳴が上がる。ユカリも平静を保つのに苦労した。根源的な恐怖が心の内から湧いて出て全身の隅々まで這い回られる感覚に襲われる。
チェスタには顔が無かった。より正確にいえば鼻から上が存在しなかった。眉間に刃を入れ、目の下を裂き、耳の上を切り、ぐるりと一周して戻ってきている。ということはそこにあるべき脳もない。そして傷口とでもいうべき場所は皮膚によって完全に塞がれている。にもかかわらず平然と口元に微笑みを浮かべている。
チェスタが仮面を元に戻すのを待って、ようやくユカリは乾いた唇を開く。
「何で生きているの?」
「さあ、私にもわかりません。しかし魔導書の被害の中ではまだましな部類です。命も尊厳も失われてはいないのだから。ただ哀れな信徒たちのために涙を流せないことは悔しい限りですが」
そこへまだユカリとそう年の変わらなそうな焚書官が屋根の下へと駆け寄ってくる。
「報告します!」と若い焚書官は地面から呼びかけた。「森の奥に地下室を見つけました!」
ユカリはどっと冷や汗をかくが、大げさな反応を見せないように堪える。この子供は何を言っているんだ、とでも言いたげな態度を取る。
「それで?」チェスタはユカリから目を離さずに言った。「魔導書はあったのですか?」
「いえ、おそらく魔法使いの工房ですが、魔導書の類は見つかりませんでした。特に誰かが隠れているわけでもなく」
ユカリはほっと安心しつつも、態度に出ないように気を付ける。
チェスタは苛立ちを隠さずに言う。「それは今、言うべきことではありませんよ」
「申し訳ありません」と言って若い焚書官は身を引いた。
「そこで魔導書を見つけたのですか?」とチェスタは当然答えて然るべきという態度でユカリに尋ねる。
「さあ、どうかな」
もう長居する必要はない、とユカリは自分に言い聞かせる。もうこの村に魔導書はなく、魔法少女が魔導書を持っており、魔法少女と村には何の関係もない。そして義父は逃げのびた。もう十分だ。
「グリュエー」とユカリは囁く。「そろそろずらかるよ」
グリュエーは同意を意味するようにユカリに頬ずりする。
ユカリは屋根から飛び降り、グリュエーの補助で難なく着地した。
「さきほど全力であれば家を吹き飛ばせると言いましたね」とチェスタが屋根の上から声高に言った。
「まあ。無関係な人の家を吹き飛ばしたりはしないけど」とユカリは呼びかけに答える。
「貴女は魔導書どころか魔法すら碌に知らない素人のようだ」とチェスタは言って地面に降り立つ。そして家の壁を手のひらで撫でる。
すると家の下の地面が水面の泡のように盛り上がって弾け、凶暴で破壊的な音をまき散らし、家が身をよじるようにして瓦礫を落としながら浮き上がる。
「これくらいのことは魔導書を使わなくとも可能なんですよ」とチェスタは呆れたように言った。
家は何かに弾き飛ばされたように方向転換し、ユカリを押し潰そうと飛んでくる。
「受け止めて」とユカリが言ったのはイチかバチかだった。グリュエーにそれが可能かどうかなど知る由もなかった。
しかし実際にグリュエーは家を受け止め、目の前に置いた。呆気にとられていた他の焚書官たちがようやく動き出したことにユカリは気づく。
「今度こそ逃げるよ、グリュエー」とユカリが言うが早いか、今地面に置いた家の扉からチェスタが飛び出してきて魔法少女を押し倒し、馬乗りになる。ユカリの細い首を絞め、チェスタは、善き者を餌とする生きた洞窟の使う悪しき言葉で呪文を唱え始める。
ユカリは声が少しも出せず、チェスタの冷たい手から冷たく禍々しいものが流れ込むのを感じた。呪われているのだろうが、何一つ抵抗できない。霞む視界の中で、チェスタが詠唱を止め、微笑むのが見えた。次の瞬間、チェスタが弾けるように己の両手を払いのける。
「呪い避けか!」とチェスタが怒鳴り、拳を握りしめて振りかぶる。魔法ではない。単純な暴力が迫る。
理由は分からなかったが、チェスタの呪いが失敗したのだということはユカリにも分かった。
その時、どこからか火矢が飛んできて、チェスタの僧衣に突き刺さった。チェスタは握った拳を解いて慌てて矢を抜き、燃え広がる前に叩き消す。
その隙を突いて、ユカリは押し倒されてもなお握ったまま離さなかった杖を思い切り振り上げる。杖の先端の紫の輝きがチェスタの顎を捉える。
「飛ばして」とユカリが痛む喉を絞り出すように言うと猛烈な風が吹き上がり、チェスタだけを上空へと吹き飛ばした。
ユカリは咳き込みつつ何とか立ち上がり、矢の飛んできた方向を確認するが、そこには燃え盛る生家があるだけだ。信じたくない想像を押し込めて、ユカリは駆け出す。風のグリュエーが並走すると、変身前よりも速い速度で村を駆け抜けられた。村の出入り口を固めていた焚書官も難なく打ち倒し、聖職者にあるまじき罵倒を背後にして道なりに走る。
太陽はずっと前に昼の世界を去り、夜空一面に白く冷たい星々が灯っている。一年を通して雪を頂く山々から下りてきた涼やかな風が川辺の子供たちのようにグリュエーと戯れている。初夏の濡れた草の匂いが香る。
狩場の森や白雪草の丘、丘の間に広がる畑を除けば、初めて村の外を走っているのだ、とユカリは思い当たる。踏みつけた土や全身で浴びる湿った空気、燃え上がる星明りの感触に体の内も外も喜び震えている。
魔法が解け、狩人の娘に戻る。しかしユカリは足を止めず、前世の使命と今世の好奇心を胸に走り続けた。新しい世界を走り続けた。