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部活が終わって、更衣室で着替えを済ませて。私は逃げるように、でも一歩一歩を噛み締めるように校門へと向かった。
春の名残がある夜の空気は少しだけ冷たくて、吐き出した息が白く混じり、すぐに街灯の光に溶けて消えていく。
遠くに見える校門。
そのオレンジ色の光の溜まりの中に、一人の人影が立っていた。
「……あ、鈴奈ちゃん。……走らなくてよかったのに。転んだら危ないでしょ」
古森先輩が、カバンを肩にかけ直して、私に向かってふわりと笑った。
けれど、いつもの練習中に見せる「どんまい!」という弾けた、ひまわりのような笑顔とは違う。どこか控えめで、今にも夜風にさらわれて消えてしまいそうな、繊細な熱を孕んだ笑顔だった。
「……お待たせして、すみません。……聖臣くん、大丈夫でしたか?」
「ううん。俺も今来たところ。……聖臣に『お前、挙動不審で不潔だ。何か企んでるだろ』って捕まって、全身に除菌スプレー浴びせられてきちゃったよ」
先輩は冗談めかして、少し湿った自分の髪をくしゃりと掻いた。
でも、その指先がわずかに、けれどはっきりと震えているのを、無機質な街灯の光が残酷なまでに照らし出していた。
沈黙が流れる。
昼間の体育館の耳をつんざくような喧騒や、聖臣くんの射抜くような冷ややかな指摘。そしてさっきまで網膜に残っていた、あの燃えるような夕焼けの残像。
それらすべてが、今、この静かな夜の中で、古森先輩の吐き出す規則正しい呼吸一つに集約されていくようだった。
「……ねえ、鈴奈ちゃん。昨日のこと、もう一度ちゃんと、逃げないで話させて」
先輩が、私との距離を詰めるように、アスファルトを一歩、ゆっくりと踏み出した。
静まり返った校門に、靴の底が地面を叩く音が、やけに大きく、重く響く。
「昨日の『冗談』って言葉。……あれ、俺の人生で一番最低な嘘だったんだ。……情けないよね。リベロのくせに、君の反応が怖くて、自分からボールを逸らして逃げちゃうなんてさ」
先輩は私の目の前で立ち止まると、私の両手を、壊れ物を包み込むように優しく、けれど「絶対に離さない」という強い意志を込めて、指先が白くなるほどの力で握りしめた。
「……俺さ、リベロだからさ。どんなに速いサーブも、予測できない変化球も、全部拾って繋ぐのが仕事。どんなピンチでも、コートの中では余裕を持って笑って、チームの空気を守らなきゃいけない。……でもさ、君に対する自分の気持ちだけは、どうしても綺麗にセッターに返せないんだよ」
「先輩……」
「君が他の男と話してると、胸の奥がざわざわして、レシーブの手元が狂う。……聖臣に指摘されるまでもなく、俺、余裕なんて全然なかったんだよね。昨日も、今日も。……世界で一番、君のことを見てる自信があるよ。君が前髪を気にする癖も、仕事で行き詰まった時に眉を寄せる癖も、疲れた時に一瞬だけ見せる幼い顔も……。その全部を、他の誰でもない、俺が一番近くで拾い上げたいって……そう思っちゃうんだ」
握られた手から、彼の切実な鼓動が伝わってくる。
指先の震えも、手のひらの熱も、すべてが嘘偽りのない「本気」だと、触れ合っている肌が教えてくれていた。
「……前原鈴奈ちゃん。俺、君のことが好きだ。……後輩としてじゃなくて、一人の女の子として。……俺の隣、ずっと空けて待ってるんだけど。……拾ってくれるかな?」
いたずらっぽく、でも泣き出しそうなほど真剣な眼差し。
リベロとしてコートの全てを拾い、守り抜いてきた彼が、今、自分の心という、人生で一番重くて、一番大切なトスを、私に向かって上げてくれた。
「……はい。……私でよければ、喜んで」
私が喉の奥を震わせながらそう答えて、彼の大きな手を精一杯握り返すと。
一瞬、時が止まったかのように先輩が目を見開いた後、今日一番の、そして今までで一番幸せそうな、とびきりの笑顔がその顔にパァッと咲いた。
「……よかった。……あー、緊張した……! マジで心臓止まるかと思った……」
先輩は安堵したように私を抱き寄せ、大きな腕の中にすっぽりと閉じ込めた。
彼のジャージから香る、微かな石鹸の匂いと、バレー部の体育館の匂い。
「……絶対、後悔させないから。……鈴奈ちゃんの涙も、不安も、全部俺が拾う。……だから、ずっと俺の隣にいてね」
耳元で響く、少し掠れた、甘い声。
私は彼の背中に手を回し、その大きな熱と、自分に向けられた真っ直ぐな想いを、しっかりと受け止めた。
夜の静寂の中で、重なり合う二人の鼓動は、どんな勝利のホイッスルよりも、美しく、力強く響き続けていた。
コメント
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ヤッバイィ古森ぃ!おめー!