テラーノベル
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「……ふぅ、落ち着け、私。落ち着くのよ。しっかりして」
自室に戻り、背中でバタンと勢いよくドアを閉めた私は、激しく鐘を打ち鳴らすような心臓を両手で必死に押さえて、何度も深呼吸を繰り返した。
肺の奥まで熱い空気が入り込み、頭がくらくらする。
鏡に映った自分の顔は、これでもかというほど熟れすぎたトマトのように真っ赤で、とてもじゃないけれど直視できたものじゃない。
「結婚……妻……。あのアビス様が、私に? 本気なの?」
ありえない。何度反芻しても、脳内の常識という常識が全力で拒否反応を示している。
彼は若くして侯爵家を継ぎ、その冷徹なまでの手腕で王宮からも一目置かれる超エリート。
社交界の至宝とまで謳われ、数多の令嬢がその微笑み一つを求めて列をなす男だ。
対する私は、ギャンブル狂の父のせいで家を没落させ、借金のかたに使用人として糊口を凌いできた女。
天と地、太陽とミミズほどの差がある。
きっと、あまりの激務に頭が疲れていらっしゃるのだわ。
あるいは、うるさい令嬢たちを永久に黙らせるための、新しい「鉄壁の護衛(嫁)」としての高度な冗談か何か……。
「そうよ、そうに決まってるわ。明日になれば、きっといつもの堅物な主様に戻っているはず」
自分に必死に暗示をかけ、一晩中寝返りを打ち続けた翌朝。
私はいつものように、完璧な使用人として彼の寝室のカーテンを開けに向かった。
契約は昨日で満了したはずだけれど、なし崩し的に「更新」ということになり
今日からもまた使用人として働くことにはなっている。
……妻になるかどうかというあの爆弾発言については、全力で保留にさせてもらっている状態だ。
(いつも通り、何事もなかったかのように振る舞えばいいのよ)
自分に言い聞かせ、震える指先を隠して、固く閉ざされた重厚な扉を叩いた。
「おはようございます、主様。朝のお着替えの準備を──」
「……エリスか。待っていた」
返ってきたのは、いつもの凛とした、氷を溶かしたような涼やかな声ではなかった。
ベッドから起き上がったアビス様は、いつも完璧に整えられている艶やかな黒髪を乱したまま、なぜかひどくやつれた様子で私を見上げた。
驚いたことに、その美しい目の下には、昨日までなかったはずの薄い隈がくっきりと浮かんでいる。
「主様!? どうされたのですか、そのお顔は……。もしや、どこかお加減でも?」
「……眠れなかっただけだ」
彼は力なく私の手首を掴むと、そのままガクンと上体を倒し、あろうことか自分の額を私の腰のあたりに押し当てた。
普段の威厳はどこへやら。
まるで大きな大型犬が、不安に耐えかねて飼い主にすがりつくような仕草だ。
密着した部分から伝わる彼の高い体温と、かすかなサンダルウッドの香りに、私の心臓が爆発しそうなほど跳ね上がる。
「えっ、あ、あの……? 主様、近いです! 離れてください!」
「君に唐突にあんなことを申し出てしまって、困らせてしまったからな…気持ち悪がられたんじゃないかと不安で一睡もできなかったんだ。目をつむれば、君がこのまま屋敷から消えてしまうのではないかと、そればかり考えてしまって」
「気持ち悪がるなんて、そんな……! ただ、あまりに突然で驚いただけですっ。消えたりしません、契約は更新したのですから、今日もこうしてお側にいるじゃないですか!」
「……俺を嫌いになったわけではないのだな?」
押し当てた額はそのままに、彼は少しだけ顔を上げて、下から私を見上げた。
長い睫毛に縁取られた深い青の瞳が、捨てられた子犬のように潤んで揺れている。
あの「氷の公爵」は一体どこへ行ってしまったのだろう。
あまりのギャップ、あまりの可愛らしさに、私の中の警戒心がみるみるうちに削り取られていく。
「……嫌いなわけ、ありません。主様には感謝していますし、人としても……その、お慕いしています。ただ、私みたいただの使用人が、どうして主様にそんなに気に入られているのか、分からなくて」
「使用人としては昨日で契約満了だと言っただろう。今は、俺がただ片想いしている一人の女性として、ここにいてくれ」
さらりと、恐ろしいほど甘い台詞を吐き捨てながら
彼は私の手をとり、指先にそっと熱いキスを落とした。
唇が触れた場所が、じりじりと火傷をしたように熱い。
「か、片思いって……そんな、主様ともあろうお方が……」
「君は俺のこと、好きじゃないだろう?」
「……っ、す、好きですよ! 主様を好きにならない女性の方が珍しいです!……。で、でも、いきなり妻なんて、飛躍しすぎなんです……!」
私の必死の抗議を、彼は満足げな、どこか独占欲に満ちた微かな笑みで受け流した。
「なら、ゆっくり考えてくれればいい。それより、朝食にしよう。君が隣に座ってくれないと、今日は何も喉を通りそうにない」
「隣!? いえ、私はお給仕をしなければ。主様のお茶も、まだ淹れておりませんし」
「君が隣で一緒に食べないなら、俺は今日一日、何も食べずに公務に励むことにする。空腹で倒れるかもしれないが、それはそれで君が介抱してくれるのか?」
「…そ、そんな子供みたいなワガママ……!」
確信した。
主様の様子がおかしい。
いえ、おかしいどころか、これは……完全に駄々をこねている。
「氷の公爵」という仮面を脱ぎ捨てた彼は、恐ろしく強引で、それでいてひどく甘え上手だった。
結局、私は公爵家の豪華絢爛なダイニングテーブル
あろうことか主賓の隣席に無理やり座らされ、主様が一口食べるごとに「美味しいか?」と一挙手一投足を覗き込まれるという
戸惑いつつも心臓に悪い時間を過ごす羽目になった。
「エリス、このパンは君が焼いたのか?」
「いえ、料理長が焼いたものです。いつもと何も変わりませんよ、主様」
「そうか。だが不思議だな、やはり君と食べると、これまでの人生で食べてきたどの高級料理よりも美味しさが格別に感じる」
(……誰か助けて。この人、私の知ってるアビス様じゃないわ! 誰かが魔法でもかけたの!?)
外堀を埋められるどころか、本丸が直接こちらの本陣に総攻撃を仕掛けてきている。
逃げ場を失い、顔を真っ赤にして俯くことしかできない私の
平穏な「退職計画」も「侍女としての日常」も
今、音を立てて完膚なきまでに崩れ去っていくのだった。
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