テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
朝食という名の甘すぎる時間を、私は魂が抜けたような心地でなんとか切り抜けた。
屋敷に戻るなり、私は逃げるようにして図書室の整理に没頭していた。
埃を払う、本の背表紙を揃える、目録と照らし合わせる。
そうした単純な、けれど完璧さが求められる作業に集中していれば
昨夜から続くあの心臓を揺さぶる衝撃も、少しは落ち着くはずだった。
けれど、背中に絶え間なく感じる、熱を帯びた視線がそれを決して許してはくれない。
「……主様。執務はどうされたのですか?」
耐えきれなくなって振り返ると、そこには重厚な革張りのソファに深く腰掛けたアビス様の姿があった。
膝の上に広げた古びた魔導書を読んでいるふりをしているが、その鋭く美しい青い瞳は、完全に私を捕らえて離さない。
「ああ、今日は急ぎの案件はない。それよりエリス、これから外出しないか?」
「外出……公務の同行ですか?誰かまた、しつこい令嬢でも待ち構えているのですか?」
いつもの「鉄壁の侍女」として、防波堤になるべく問いかけた私に、彼はふっと優しく目を細めた。
その口角がわずかに上がるだけで、図書室の空気が華やぐ。
「いや、買い物だ。君の荷物は昨日、契約満了に備えてほとんどまとめてしまったんだろう? 新しい生活に必要なものを、今から買いに行く」
「えっ、でもそれは、自分で適当に揃えます。下町の雑貨屋で十分ですし───」
「俺が君に贈りたいんだ。これは主としての命令ではなく、一人の男としての願いだ」
そう言って、反論の余地さえ与えずに私の手を取り、私は流されるままに馬車に乗った。
向かった先は、庶民が立ち入ることさえ躊躇し、馬車の車輪の音さえ上品に響く王都で最も高級なブティックが立ち並ぶ通り。
その中でも一際豪奢な、王家御用達の紋章が刻まれた店の前で馬車が止まった。
「主様、ここは……王族の方々や、高位貴族の方々しか出入りされないお店では……?」
「ああ、ここの店主は俺の古い知り合いだ。気にするな。エリス、好きなだけ選ぶといい。あらかじめ、君に似合いそうなものをいくつかリストアップさせてある」
店に足を踏み入れた瞬間、私はその光景に圧倒されて言葉を失った。
目の前には、最高級のシルクや、雲のように繊細なレースをふんだんに使ったドレスの山。
宝石を砕いて散りばめたような刺繍が、シャンデリアの光を反射して眩いばかりに輝いている。
出迎えてくれた店員さんたちは、なぜか私を「未来の侯爵夫人」を見るような、期待と憧れに満ちたキラキラとした熱い目で見つめてきた。
「あ、あの! 違います、私はただの使用人で……っ」
慌てて首を振る私を無視して、アビス様は流れるような優雅な仕草で一着のドレスを手に取った。
「エリス、この淡いブルーはどうだ? 君の澄んだ瞳の色によく似ている。……それとも、こちらの桃色か? 照れた時の君の頬のようで、実に愛らしいな」
「主様、聞いていらっしゃいますか……!? そもそも、侍女にこんなドレスは必要ありません!」
私の必死の弁明など、今の彼には一滴の雨粒ほどの重みもないらしい。
彼はまるでおもちゃ屋に来た子供のように瞳を輝かせ、楽しそうに次々とドレスを私の体に当てていく。
社交界で「氷の公爵」と恐れられ、一切の妥協を許さない鉄面皮として知られるあの人が
今、私の前でただの恋する青年のように微笑んでいるのだ。
「主様、多すぎます! そもそも、こんな豪華なドレス、どこに着ていくんですか?」
困り果てて、半ば投げやりにそう問い詰めれば、彼は不意に距離を詰め、私の腰にそっと手を回した。
グイッと引き寄せられ、彼の胸元に閉じ込められる。
逃げられないように私を固定すると、耳元で低く、とろけるような甘い声で囁いた。
「君を着飾りたいだけだ。……俺の妻になる女が、いつまでも古びた侍女服を着ている必要はないだろう?」
「まっ、まだなるとは言ってませんからね?!」
「まだ、ということはなる意志はあるのだな」
「ちっ、違っ!」
その熱い吐息が耳朶をかすめ、一瞬で全身の血が逆流した。
膝から力が抜けそうになり、彼の腕にしがみつく形になってしまう。
頭が真っ白になり、用意していたはずの拒絶の言葉がすべて霧散して消えた。
これはいわゆる、買い物という名の「デート」なのだ。
それも、逃げ場のないほど情熱的な。
アビス様は、私が「使用人」という防衛本能に近い殻に閉じこもろうとするたびに
こうして贅沢なまでの愛と、強引で甘い優しさで、その殻を一枚ずつ丁寧に、けれど確実に剥がしていく。
「次は靴屋だ。君をどこへでも連れて行ける、最高の靴を選ぼう」
「あ、アビス様……っ。もう、降参です……」
繋がれた手のひらから伝わる圧倒的な熱が、私の心の奥底にこびりついていた「身分違い」という名の迷いを、じりじりと溶かしていく。
馬車の荷台に積み上げられる買い物袋の数が増えていくたびに、私の物理的な「逃げ道」が一つずつ塞がれていくような……。
そんな、抗いようのない甘さと
底知れない執着への恐ろしい予感に、私はただ震えることしかできなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!