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リハーサル室。音出しの直前、元貴はマイクを握ったまま首を傾げた。
「……あれ」
若井が振り向く。
「どうした?」
元貴は少し考えてから言う。
「左、ちょっとだけ上げてほしい」
若井がフェーダーを動かす。
スピーカーから音が出る。
元貴は、反射的に左耳に指を当てた。
「……聞こえにくい」
軽く言ったつもりだった。
ずっと前から感じていた違和感を、
今この場の空気に合わせて“初めて気づいたみたいに”出しただけ。
涼ちゃんがすぐに顔を上げる。
「ん?」
元貴は慌てて付け足す。
「いや、全然ダメってわけじゃない。
ちょっとこもる感じがするだけ」
若井が眉を寄せる。
「“だけ”?」
元貴は一瞬黙る。
逃げ場がないと悟ったみたいに、息を吐いた。
「……正確に言うとさ」
視線を落としたまま、続ける。
「これ、今日じゃない。
一週間くらい前から」
涼ちゃんの表情が変わる。
「一週間?」
「最初は高音だけだった」
元貴は淡々と言う。
「ミックスかなって思ったし、
イヤモニのせいにもできた」
若井が低く言う。
「それで黙ってた?」
「黙ってたっていうか……」
元貴は苦笑する。
「認めなかった」
左耳に、もう一度指を当てる。
「夜になると耳鳴りして、
朝は少しマシになる。
だから“まだ大丈夫”って」
涼ちゃんが静かに近づく。
元貴の左側に立つ。
「元貴」
低い声。
「それを一週間、無視してたの?」
元貴は何も言えない。
若井が言う。
「聞こえにくいまま歌うつもりだった?」
元貴は小さく頷く。
「歌えなくなるより、
聞こえにくい方がマシだと思った」
涼ちゃんがはっきり言う。
「それ、逆なんじゃない?」
元貴はゆっくり顔を上げる。
「……左、まだ聞こえてる。
でも、絶対にズレてる」
初めて“気のせい”をやめた声だった。