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#お仕事
#秘密
(あぁ、彼女も、同じんだ)
彼女は天使様などではない。自分と同じように、この呼吸の浅い世界で泥をすすりながら生きている、ただの人間。
では、あの白い部屋での彼女は、一体何なのだ?
なぜ、わざわざ「天使様」などという大それた名前を名乗り、他人の罪を背負うような真似をしているのか。
その疑問は、翼の中で急速に膨れ上がり、醜い執着へと変わっていった。
次の予約の日。
翼は、いつもとは違う異様な緊張感を孕んで、白い部屋の床に跪いていた。
「どうしたの、子羊よ。今日のあなたは、少し上の空ね」
純白のエナメルドレスに身を包んだ天使様が、不審そうに翼を見下ろす。手には、細い革の鞭が握られている。
「……天使様」
翼は、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。いつもなら恐怖と期待で目を伏せるはずの彼が、剥き出しの視線を向けたことに、彼女の眉が微かに動いた。
「何かしら?」
「天使様は、どうして『天使様』なんですか?」
「前にも言ったはずよ。私はあなたたちの罪を――」
「嘘をつかないでください!」
翼は、低く吐き捨てた。それは、この部屋の絶対的なルールにおいて、明確な「反逆」だった。
「あなたが、先週の土曜日、裏口から出ていくのを見ました。普通のトレンチコートを着て、ひどく疲れた顔をして、自販機で缶コーヒーを買っていました。僕と同じです。あなたも世界にすり減らされている、ただの人間じゃないですか。なのに、どうしてここでは神聖な神の使いの振りをするのですか? 女王様じゃ駄目なのですか? どうして、天使様なんですか!」
部屋の空気が、一瞬で氷結した。讃美歌のオルガンの音が、やけに大きく耳に響く。
天使様の顔から、一切の表情が消えた。
その瞳の奥に宿ったのは、ドSの支配者としての怒りではない。自分の最も深い聖域を土足で踏み荒らされた人間の、生々しい「恐怖」と「嫌悪」だった。
翼の目は、彼女の握る鞭へと向いた。その細い指先は、日常の過酷さを物語るように、アルコール消毒でひび割れ、痛々しく荒れていた。
「……調子に乗らないで、この肉塊が」
彼女の声は、震えていた。
直後、凄まじい風切り音とともに、鞭が振るわれた。
パァン!!
それは、これまでの「プレイ」の範疇を完全に超えた、感情の暴力的破裂だった。
鞭の先端が翼の頬をかすめ、鮮烈な赤い線が走る。
「あなたに何がわかるの!? 私が外で、どんな思いで……!」
天使様は、狂ったように鞭を振り回した。翼は防戦一方になりながらも、彼女から目を離さなかった。
彼女の打撃は乱れ、正確さを失っていた。それは調教ではなく、ただの取り乱した子供の殴打だった。
突然、壁のスピーカーから小さなノイズが走った。彼女はその音にびくりと肩を跳ね上げ、まるでナースコールの幻聴でも聞いたかのように、怯えた目で部屋の天井を見上げた。
「毎日、毎日……私の目の前で、人が消えていくのよ……っ!」
彼女の口から漏れたのは、悲鳴に近い叫びだった。
「どれだけ手を握っても、どれだけ祈っても、神様なんて誰も救ってくれない! 『お前のせいで死んだ』って、遺族に胸ぐらを掴まれて……私の心の方が、とっくに死んでるのよ!」
彼女の呼吸が激しく荒れる。ドレスの胸元が激しく上下し、荒れた指先が血がにじむほど強く鞭を握りしめていた。
「ここに来て、この白い部屋で、私を『天使様』と呼ばせる時だけ……私は、誰かを救う側の人間になれるの。それなのに、あなたごときが……私の聖域を、壊さないで……!」
最後の一撃が、翼の胸元に叩きつけられた。
しかし、翼は声を上げなかった。彼はただ、息を切らし、涙を流しながら自分を睨みつける彼女を見つめていた。
天使様の手から、白い鞭が滑り落ちた。
彼女はその場に崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆った。
「あぁ……、壊れてしまった」
彼女の肩が、小刻みに震えている。
背中の真っ白な翼が、ひどく重そうに、惨めに歪んでいた。彼女は翼を救う天使様などではなかった。翼の罪悪感を利用して、自分の壊れそうな承認欲求と存在意義を補填していた、ただの「共依存の怪物」だったのだ。
重苦しい沈黙の中で、パイプオルガンの音が二人を嘲笑うように鳴り響いている。
翼は、ゆっくりと立ち上がった。全身の傷がズキズキと痛んだが、その脳内は、怒りと焦燥で焼け焦げそうになっていた。
(彼女がただの人間なら……じゃあ、僕のこの罪は、誰が許してくれるんだ?)
翼は、床にへたり込んで泣いている「天使様」の前に歩み寄り、その肩を乱暴につかんだ。
「ふざけないでください……」
翼の声は、獣のような唸り声だった。優しく慰める余裕など、彼には微塵もなかった。
「壊れた、ですって? あなたが壊れて困るのは僕のほうです! あなたが人間だというなら、僕を裁く神はどこにいるんですか! 僕が犯した罪は、誰が削ぎ落としてくれるのですか!」
彼女は、涙に濡れた顔を上げて息を呑んだ。目の前にいるのは、従順な子羊ではない。生きるために「偽物の神」を必要として飢えている、狂った人間だった。
「店を変えろっていうんですか? 他の人に、僕のこの汚い泥を預けられるわけがないでしょう! あなたが看護師だろうが、そんなことはどうでもいいんです! 頼むから、僕のために天使様のフリを続けてください!」
翼は床に落ちていた白い鞭を拾い上げ、彼女の荒れた右手に無理やり握らせた。そして、その手を自分の首筋へと押し当てる。
「僕には、あなたが必要なんだ。あなたが本物かどうかなんて、どうでもいい。お互いに、このクソみたいな世界で生き残るために、利用し合えばいいじゃないですか。あなたが僕を傷つけることでしか救われないなら、僕を道具にすればいい。僕の身体を使って、あなたの『救済』を完成させてください!」
翼の目は、完全に血走っていた。それは懇願であり、同時に彼女を逃がさないための呪縛だった。
彼女は、じっと翼の狂気を見つめていた。
やがて、彼女の目から涙が止まる。その瞳の奥に、怯えは消え、冷徹で、しかしどこか底暗い「確信」が宿っていく。
彼女はフッと、小さく、歪んだ笑みを浮かべた。
「……本当に、救いようのないドMね! あなたは」
「あなたにしか、救えませんから」
天使様はゆっくりと立ち上がった。ドレスの裾を払い、背中の白い翼を正す。彼女の背筋が、再び凛と伸びた。
だが、その佇まいは先ほどまでの「神聖な天使」ではない。翼という怪物を喰らい、自らも怪物になることを受け入れた者の姿だった。
彼女は翼の首筋に鞭の柄を冷たく押し付け、引きずるようにして彼を拘束台へと導いた。
「いいわ。そこまで言うなら、一生私のために鳴き続けなさい。あなたの肉体も、精神も、その汚い人生も、すべて私が引き受けて、すり潰してあげる」
その声は、完璧な「天使様」のものだった。
だが、その裏に隠された剥き出しの脆さを、翼はもう知っている。もちろん彼女もまた、翼が自分を都合よく利用していることを知っている。
スピーカーからの讃美歌が、不協和音のように歪んで響く。
真っ白な部屋の中で、二人の歪んだ魂は、完全に噛み合った。それは世界のどこよりも不健全で、自由で、そして、二度と引き返せない地獄の始まりだった。
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