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颯真の死後、香帆は しばらく仕事を休んだ。
配偶者の〈忌引き休暇〉は10日間だが、〈有給休暇〉も10日申請した。
会社関係者で一番心配してくれたのは美緒だった。
引き籠る香帆を気にして、美緒は家まで来てくれた。
「相談にのるよ。なんでも話して」
といってくれるが、真実だけは絶対に言えない。
「届け出 はした?」
死亡届や世帯主変更届など、人が亡くなると〈届け出〉が必要だ。
「うん。役所に行った」
「クレジットカードやスマホの解約手続きは?」
「まだだけど、そのうちに」
「生命保険金は請求した?」
「え?」
すっかり忘れていた。
あの日まで(颯真が死んだら三千万円 手に入る)と思っていたのに。
そんなこと頭の中から消えていた。
「してない」
「それはダメ。これから一人になるの。お金は必要よ。
きちんと請求した方が、佐山さんも安心すると思う」
颯真が安心する? そういえば……、
「俺が死んでも、香帆に三千万入るんやったら大丈夫やな」
そんだけあったら当分は困らんやろ」
掛金が高いから保険をやめよう、といった香帆を止めたのは颯真だ。
(あれは颯真の愛情だったんだ……)
「わかった。保険金を請求する」
香帆が保険会社に連絡すると、すぐに『死亡保険金請求書』届いた。
必要事項を記入して〈保険証券〉〈死亡診断書〉〈戸籍抄本〉〈印鑑証明書〉などと一緒に返送した。
1週間後。
香帆の口座に、保険会社から三千万円が振り込まれた。
颯真が死んで入ったお金・・・・・・。
颯真の愛がこもったお金・・・・・・。
このお金は1円も使えない。使う気持ちになれない。
反省して、反省して、いつか寄付できたらいい。
保険金が振り込まれたことを美緒に連絡した。
美緒は安心してくれた。
香帆も、少し気持ちが落ち着いた。
次の日。
香帆のスマホに、桜志郎から電話が入った。
香帆と桜志郎の連絡は、颯真が死んだ日から途絶えていた。
香帆から連絡するのは、気が引けた。
桜志郎を〈巻き込む〉気がした。
桜志郎を最後に見たのは、カフェのカウンターだ。
(今さら何だろう? 私に関わらない方がいいのに)
(優しい人だから心配してくれたのかな?)
香帆は桜志郎からの着信を確認して、電話に出た。
桜志郎は呆れた口調でいった。
「驚いた。本当に殺すと思わなかった」
殺人を勧めた本人が、まるで他人事のようだ。
「でも、真剣に考えました。僕にも正義感がある。
香帆さんが御主人を殺したことを、警察に話します」
え? 警察に? 話す?
「待って! 殺す気は無かったの!」
「そんなの誰が信じる? 実際、毒で死んだのに」
「その毒をくれたのは、」
「確かに僕も軽率だった。きちんと警察で話します。
まさか、本当に使うと思ってなかったんだ」
使うと思ってなかった。ただの悪戯だった。
僕も軽率だったけど、それでも真実を警察に話す。
桜志郎は同じ言葉を繰り返した。
桜志郎が警察に話したら、香帆はすぐに事情聴取されるだろう。
警察で「夫を殺したのか?」と訊かれたら?
「殺す気は無かったけど、間違って死んでしまった」と言えばいいのか?
それが通用するのか?
このままでは『夫を殺した妻』になる。
毒入りカップを奪い取ったのに。
殺したくなかったのに。
混乱する香帆に、桜志郎が声を掛けた。
「香帆さん、取引しませんか?」
「取引?」
「率直に言うと……、口止め料をください。
口止め料さえくれたら、このことは誰にも話しません」
『背に腹は代えられぬ』という言葉がある。
[大切なものを守るためには犠牲が必要だ]という意味だ。
お金で助かるのなら払ってもいい、と香帆は思った。
両親や、颯真の親族の前で「夫を殺した犯罪者」になりたくない。
勤務先の宅配便の社員にも知られたくない。
「口止め料は、いくらですか」
「わかってるでしょ? 三千万です」
あ……、最初から狙ってたんだ。
香帆はやっと気付いた。
でも、もう逆らえない。
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