顔合わせをしたその翌週から、早速土屋家を訪ねる。理玖の家庭教師としての初日ということで、緊張しながらインターホンを押した。
「先生、お待ちしていました」
友恵がにこやかに出迎えてくれる。
その表情にほっとしながら、彼女に促されるままに玄関を上がり、スリッパをはく。奥へと向かう友恵の後に続いて廊下を進み、角を曲がった。そこにあったのは二階へと続く階段だったが、理玖が手すりにもたれて立っていた。
私を見た途端、彼は嬉しそうに笑って体を起こした。初対面の時と同じように、礼儀正しくお辞儀をする。
「先生、今日からよろしくお願いします」
私もまた足を止め、彼の挨拶に応える。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それじゃあ、俺の部屋に行きましょうか」
「はい」
理玖に頷いてから、私は友恵に会釈する。
「それでは、お邪魔します」
「滝口先生、よろしくお願いします。後でお茶をお持ちしますね」
「いえ、お気遣いなく」
遠慮する私に彼女は笑う。
「理玖がちゃんと勉強しているかどうか、確認する意味もありますから」
「なるほど」
友恵の言葉に私は納得する。
先に階段を登っていた理玖は途中で足を止め、苦々しい顔で母親を見下ろした。
「言われなくたって、ちゃんと勉強するよ。わざわざ家庭教師の先生に来てもらうんだから。先生、行きましょ」
私はもう一度友恵に頭を下げて、理玖の後を追った。
階段を登り切ってすぐの右手にドアがあった。
その前で彼は足を止めて私を振り返る。
「どうぞ」
理玖が開けたドアの向こうに、私は緊張しながら足を踏み入れた。
部屋は思っていた以上に綺麗に片付いていた。心の中だけで終わるはずだった言葉が、うっかり漏れてしまう。
「意外とちゃんとしてるんだ……」
「汚部屋だと思ってました?」
理玖の声が背後で聞こえてはっとする。
「ご、ごめんなさい。そういう風に思っていた訳では……。男の子の部屋っていうのは、乱雑なのが普通なのかと思っていたので……」
失言だったと後悔しつつ弁解する私に、理玖は照れたように笑った。
「白状すると、確かにニ、三日前までは相当ごちゃごちゃしてました。今日から先生が来るからと思って、頑張って片付けました。あ、右側の椅子の方に座ってください」
「は、はい。失礼します」
私はおずおずと理玖に示された椅子に向かい、腰を下ろした。カバンを足元に置き、中から筆記用具を取り出す。気を取り直すように軽く咳払いをしてから口を開いた。
「えぇと、それでは、早速始めましょうか。初めに聞いたお話だと、土屋君は英語と数学が苦手なんでしたよね?今日はどちらをやりますか?それとも両方ですか?」
「今日は英語の宿題が出てるので、最初はそれを見てもらいたいです」
すでに準備していたらしい。机の上にはすでに数枚のプリントが広げられていた。
「分かりました。まずは、一人で解いてみましょうか。分からなかったり、迷ったりしたところは、全部解き終えてから一緒に見て行くことにしましょう」
「はい。分かりました」
理玖は素直に頷き、時折考え込む様子を見せながら宿題に取り組み始めた。
その間、私は彼の手元を静かに見守っていた。集中を邪魔しないように、身じろぎにも注意を払う。
時間が経ち、課題を終えたらしい彼はシャープペンを置いた。
「終わりました。見てもらえますか?」
私はプリントを手に取って、解答を見返した。いくつかの空欄と見つけたいくつかの間違いについて、一つずつ説明していく。
私の説明を聞いている間中、理玖の眉間にはしわが寄っていたが、最後にはなんとか理解できたらしい。再びシャープペンシルを手にして、私に指摘された問題に再び挑む。すべて書き終えた彼は満足そうな顔をしていた。
「ありがとうございました。やっぱり一人でやるのと、分かる人に教えてもらいながらやるのとは、全然違うもんなんですね。滝口先生が来てくれて良かったです」
しみじみとした口調で言われて、くすぐったい気分になった。素直に嬉しいと思い口元が綻ぶ。
「私が家庭教師で大丈夫そうですか?」
理玖はにっこりと笑い、力強く頷く。
「もちろんです。これからは先生に教えてもらえるんだって思うと、すごくやる気が出ます!」
「そう言ってもらえて良かったです」
ひとまずは役に立てそうだと安心する。
その時、軽いノックの音と理玖の名前を呼ぶ声がした。
「お茶かな。ちょっと待っててくださいね」
理玖は私に断りを入れて椅子から立ち上がり、ドアを開けた。
友恵がトレイを持って立っていた。私を見て軽く会釈し、理玖にトレイごと手渡す。
「そろそろ休憩かと思って、お茶とクッキーを持って来たわよ」
「ありがとう」
「どう?勉強、はかどってる?」
「うん、滝口先生のおかげで。なんかさ、説明がすごく分かりやすい」
「そう。お願いして良かったわ」
二人の会話を聞いていた私は、友恵の言葉にほっとする。
「先生、ありがとうございます。この後もよろしくお願いします」
「はい」
頷く私に友恵は微笑んでから、理玖を見上げる。
「空いたカップとお皿は、後で下に持って来てね」
「分かった」
友恵が部屋を離れた後ドアを閉めた理玖は、ローテーブルの上にトレイを置いた。ティーカップとクッキーが乗った小皿を並べてから、クッションを持ってきて私を呼ぶ。
「先生、ここにどうぞ。休憩しましょう」
「ありがとうございます」
椅子から立ち上がった私は、彼が用意してくれたクッションの上に腰を下ろした。
私が座ったのを見て、理玖は自分の定位置らしい場所に腰を下ろした。
そこは私の正面だった。どこを見たらいいのかと目が泳ぐ。
その様子を別の意味に捉えたのか、理玖が気遣うように訊ねる。
「もしかして、紅茶って苦手でしたか?」
「えっ。いえ、全然そんなことはないです」
「そうですか?でも……」
理玖は迷うような目をしながら首を傾げる。
「もし、他のが良ければ変えてきますけど」
変な気を使わせてしまったと私は焦る。
「いえいえ。私、紅茶党なんです。遠慮なく頂きます」
私はカップに手を伸ばし、口をつけた。
それを見て、理玖もようやく自分のカップに手を伸ばす。
それぞれにお茶を飲み、カップをテーブルに戻した後、沈黙が訪れた。
その静かな雰囲気に落ち着かなくなり、とりあえず何か話さなくてはと焦り出した。しかし、今どきの男子高校生が好みそうな話題など、すぐには浮かばない。話の取っ掛かりになりそうなネタはないかと頭を巡らせて、美和との会話をふと思い出した。
「そう言えば土屋君のお誕生日って、バレンタインデーだそうですね」
理玖はクッキーに伸ばしかけていた手を止めて、私を見た。
「美和ちゃんから聞いたんですか?」
「はい。この前顔合わせした日に。その時、土屋君の伝説も聞きましたよ」
理玖は苦々しく笑う。
「伝説……。美和ちゃん、絶対に盛って話してるな」
理玖は組んだ腕をテーブルの上に置いて、私の方へ身を乗り出した。
「ところで、お願いがあるんですけど」
急に口調を改めた理玖に私は身構えた。
「は、はい。なんでしょう」
彼はふわりと笑う。
「俺のことは、名前で呼んでくれませんか?」
「え?名前で?」
「そうです。『理玖』って。俺も『まど香さん』って呼びますから」
予想していなかったお願いに、私は瞬きを繰り返した。
理玖はにこにこしながらなおも言う。
「名前で呼び合ったら、早く仲良くなれそうな気がするんです」
彼を下の名前で呼ぶのはまぁいいとして、私を名前で呼ぶという提案には困惑する。私たちが会ってから、まだ二回目なのだ。
「で、でも……。苗字で呼び合ったって、仲良くなれますよね」
口ごもりながらも真顔で返す私に、理玖は拗ねた顔を見せた。
「そうかもしれないですけど……。名前で呼び合った方が、ぐっと距離が縮まると思うんですよね。さっきも言ったけど、俺は先生ともっと仲良くなりたいんです。だめですか?」
「えぇと……」
「まど香さん、どうしてもだめ?」
わざとなのか天然なのか、彼の甘えた声に不覚にもときめいてしまう。
「まど香さん、いいでしょ?」
ぐいぐいと訴えてくる理玖に負けそうになる。
「……せ、せめて。『先生』をつけてもらえませんか。そうしてくれたら、『理玖君』って呼びますから」
彼の顔に少しだけ残念そうな色が滲んだが、それはすぐに消えた。嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
「分かりました。それなら、まど香先生って呼びますね」
「ぜ、ぜひ、そうして下さい」
私は残りの紅茶をくいっと飲み干して、彼に言った。
「理玖君、そろそろ勉強を再開しましょうか。次は数学?宿題ですか?それとも、復習や予習をやりましょうか?」
理玖の顔に苦笑がにじんだ。おかしなことを言ったはずはないのだが、どうしてそんな顔をしているのかと心配になる。
「理玖君、どうかしました?」
「いえ。ただ……」
理玖は前髪をかき上げながら私に目を向ける。
「まど香先生って真面目なんだな、と思いまして」
「え?」
「できれば、もっと気楽な感じで接してほしいなと思うんですよね」
「それは追々ということで……」
理玖はため息をついた。
「……分かりました。だけど、名前で呼んでもらうっていう目標はクリアできたから、今日の所はこれで良しとしようかな」
「目標……?クリアって……」
困惑して瞬きを繰り返している私を見て、理玖はくすっと笑い、立ちあがる。
「話は戻りますけど、後半は数学を見てもらえますか?今日の授業で、分からなかった所があって」
「は、はい」
私は理玖の後に続いて急いで立ち上がる。
私が席に着いたのを見て、彼は教科書を開いた。とある部分を指差す。
「解き方がイマイチ分からなくて」
「あぁ、これはですね」
私は持参していた小さめのノートを開いた。理玖に解説するために、紙面にペンを走らせる。
「ここはこうなるから、こういう答えになるんです」
「あぁ、なるほど……」
理玖は身を乗り出して私の手元を覗き込む。
彼の綺麗な顔が間近にあってどきりとした。
「あ、あの、理玖君。もう少し離れてもらえますか」
「え?」
私の言葉ではじめて気がついたらしく、彼は慌てて体を起こした。
「ごめんなさい。ちょっと見えにくいところがあったから」
「いえ、大丈夫ですよ」
小さな動揺を隠しながら、彼の方へノートを滑らせた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。これ、書き写してもいいですか?」
「もちろん。というか、切り取ってもいいですよ」
「いえ。自分で書いた方が覚えられると思うので」
理玖は真面目な顔で言って、早速ノートに目を落とした。
私は彼の横顔をそっと盗み見ながら、心の中で自分に言い聞かせた。弟よりも年下の高校生相手に、いちいちどきどきしている場合ではない。私は彼の家庭教師なのだから。
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