「はぁ~~~」
思わずジャネットは、目の前の光景に、長い溜め息を付いた。
魔塔に戻ってからというものの、一週間ほど、ほぼ執務室に閉じ込められた状態だったからだ。しかし、これはその内の一つに過ぎない。
もう一つは、机の上の書類の山である。辛うじて、正面は空けて置いてあるが、圧迫感さえ抱かせるレベルだった。思わず背を向けて、開放感のある広い窓をすべて開けてしまいたくなった。
風の強い日だから、開けた瞬間、この書類たちは、いつも以上に盛大に舞うだろう。机の上にある花瓶も倒れて、使い物にならない書類が、盛大に出てしまうかもしれない。
そんな想像をしたら、試してみるか、と一瞬衝動に駆られた。
確かにこれらの業務を無視して、旅に出かけていたことは、悪いと思っている。だが、これは最早、悪意そのものではないだろうか。処理し続けていても、減っている感じがしなかった。
「ジャネット様。こちらが今日中に処理しなければならない書類なので、頑張ってください」
そう言って、目の前に書類の山を置いていく男の存在が、溜め息を付いた最後の原因だった。
「そもそも、私がここに戻ってきた理由は、貴方なのよ!」
「えぇ、その通りです。けれど、私の処罰については、ジャネット様が直接動かなければならないことではありませんよ。魔塔には、そういう部署が、わざわざ設けてあるのですから。最終的に、こうして処理をするのは、ジャネット様でなければなりませんが」
この男、ユルーゲル・レニンを含む、レニン伯爵一派を処罰するために、魔塔に急遽戻ってきたわけだが、ユルーゲルだけは、治安隊に引き渡していなかった。
治安隊とは、魔塔の刑罰を担当する部署である。魔術師の犯罪でも、大きいものは国が処理するが、小さいことや魔塔内で起きたことなどは、この治安隊が制圧も含めて処理をする。
今回は、ユルーゲルのことを公にはできないため、治安隊で処理することにした。が、ユルーゲルを目の届かない所で、野放しにするのは危険だと判断したジャネットは、専属護衛を盾に、こうして傍に置いているのだ。
本人はそれが分かっているのかいないのか、飄々とした様子で、まるで他人事のように振る舞っていた。今も、机の上にある書類の山を、分類別に分けてくれている。
「それに、私の処罰は、書類上すでに下っているわけですし、戻ってきた目的は、果たされたのも同然ではないですか?」
ユルーゲルの罪状は、一般人の拉致監禁と実験の強要。ゾルレオは、幇助ということになった。
レニン伯爵家は、ソマイアの建国当初から、魔術師として大いに貢献してきた家であったのもあり、魔塔としては、ゾルレオの代にのみ、魔術師の資格を剥奪することとなった。
ユルーゲルに至っては、先にジャネットが下した通り、専属護衛という名の監視が加えられている。勿論刑は、ゾルレオ同様、魔術師の資格は剥奪扱いである。
「だったら、どうして反省した様子が見られないのかしら。何故、罰を与えたのか、分かっているの?」
「勿論ですとも。ですからこうして、お仕事の手伝いをしているのではありませんか。早く片付ければ、生贄の伝承について、調べに行くことが出来るんですよ」
全く分かっていない。いや、アンリエッタやパトリシア嬢に対して、罪の意識があるのなら、解決に繋がるようなことを調べるのもまた、反省の表明になる。……なるのだけれど、果たして、そう思ってもいいのかしら。
ただユルーゲルの興味を、満たすだけのようにも、感じてしまうわ。
「信じられませんか?」
「今までの行動と言動を考えるとね、無理な話だわ」
「では、どのようにすれば、満足していただけますか?」
言葉では困ったような言い回しを使っているが、口調は楽しげだった。口元も笑っている。ジャネットは、そんなユルーゲルの態度を無視して、引き出しから書類を取り出した。
「昨日、レニン伯爵の別邸に置いてきた魔術師を経由して、学術院の院長から報告が来たわ。そのことについて、貴方の見解を聞きたいの」
「構いませんが、先に机の上にある書類を片付けなくて、よろしいのですか?」
勿論、片付けなければならない。けれどジャネットは、書類を持った手を上げて、にんまりと笑って見せた。
「時間を有効的に使いましょう。これの返答によって、必要な資料を図書館から請求して、それを貴方が調べて、報告書にまとめるのよ。悪くないでしょ」
「えぇ。これで退屈せずに済みます」
思わず、黙りなさい! と睨みつけた。退屈ですって! 全く! 本当に、もう!
書類の山を、ユルーゲルにぶつけてやりたい気分になったが、後のことを考えたら、上げていた手をゆっくりと机に乗せた。
「それで、どのような内容なのですか?」
「……銀竜がマーシェルのガザルド山脈の洞窟にいるのは、マーカスの話で覚えていると思うけど、場所がソマイアに近いのは、分かるわね」
予想していなかった内容から入ったからなのか、急に押し黙ったまま頷いた。
「私も貴方も生贄の伝承は、知らなかった。そして、学術院の院長もまた、私たちと同じ回答だった。ソマイアの近くで起こっていたことなのに、どうしてなのかしら」
「つまりジャネット様は、意図的にソマイアには伝わっていない、と?」
「えぇ。もしくは、ソマイアから生贄が出ていない、という可能性もあるわ」
ジャネットの言葉に、ユルーゲルの目つきが変わった。
「それは、マーシェルからしか生贄が出ていない、という意味にもなりますね」
「銀竜の力の範囲内がどれくらいなのかは、分からないけれど、ソマイアの近くに住み着いているのだから、他国に生贄が出ている可能性は低いと思うのよ」
「では、マーシェルの郷土史を取り寄せて、調べましょう。生贄という断定的なものが、出てくる可能性は低いかもしれませんが、失踪や神隠しといった観点から調べれば、該当するものが、出てくるかもしれません」
「えぇ、じゃこの件は、その方向で進めて。院長も学術院の資料を使って、調べてくれるそうよ」
ジャネットは、書類にメモを書き入れた。そして、次の書類に目を通しながら口を開いた。
「次は、パトリシア嬢の召喚について、新しい情報がきたわ」
そう前置きをして、銀色の光の発生原因が、マーカスが持っていた銀竜の鱗であることを話した。
「院長は、鱗が魔法陣に、またはアンリエッタの神聖力のどちらかに、反応したのではないか、と考えているそうよ。貴方の見解はどう見る?」
「そうですね。私は両者に反応したのだと思います。同時にではなく、魔法陣が先で、アンリエッタさんの神聖力が後に、と考えられるでしょう」
「即断した理由は?」
ユルーゲルはジャネットの話を途中から、明らかに考える振りをしていた。
「魔法陣は神聖力に、反応するように作ったからです。その証拠に、マーカス殿が所持していた、神聖力が込められたリボンにも、魔法陣は反応を示したのですから、実証済みと判断しても良いでしょう。ですから、鱗に神聖力が込められていたと仮定をすると、魔法陣にまず先に反応したことになります。まぁ、仮定と言いましたが、光を放った要因が、まさにそれを物語っています。だから魔法陣に入ったことで、鱗に込められた神聖力が、放出されたのだと思いますよ。神聖力を吸収するように作りましたので」
つまり、リボンと鱗が、魔法陣に反応した理由は、同じだということだ。ただ、リボンよりも鱗に込められた神聖力の規模が大きかったため、光を発するほどの現象が、発生したのだと言っている。
「なるほどね。前者の理由は分かったわ。後者は? 鱗は何故、アンリエッタの神聖力に反応したのかしら」
「その理由は解り兼ねますが、ただ鱗自体では、込められた神聖力を使うことは不可能でしょう。放出する道具か人が必要です。そのため、アンリエッタさんの体を媒介にして、放出されたのだと思います。そのためにはまず、アンリエッタさんの神聖力に反応を示さなければ、実現できないでしょう」
「媒介となった理由は、ただアンリエッタが神聖力を使えたから、だと思ってもいいのかしら」
それとも、鱗の持ち主である銀竜と、関係があるからなのか。ジャネットは敢えて、そこまでは口に出さなかった。そうではないと思いたかったからだ。
しかし、ユルーゲルはそこまで考えない。飽く迄も、自分の理論を弁明するだけだった。
「それもあるかもしれませんが、鱗にあった膨大な神聖力を、受け止められるほどの器があったから、というのも考えられます。元々、所持している神聖力の量が多いですからね。銀竜がアンリエッタさんを呼んでいるのも、もしかしたら、その辺が理由なのかもしれません」
「……そもそも神聖力を、竜が持てるものなの?」
「聖なる力ですから、人以外でも持てるものだと思いますよ。それも調べましょうか?」
ジャネットは首を横に振った。生贄の伝承だけで、調べる量が多いのだから、そこまでする必要はなかった。
「いいえ。ただそうなると、銀竜がアンリエッタを呼んでいる理由は、生贄とは違う可能性がある、ということになるわね」
「そうですね。これは飽く迄も仮定ですが、銀竜が生贄を求める理由が、力が弱くなったというものであるのならば、それを補うほどの神聖力を捧げれば、回避できるのではないでしょうか。ただ、それがどれだけの量かは、測り兼ねますが。鱗にあった神聖力の量が、あれほどのものでしたから」
「アンリエッタの持っている量では、補えそうにないと?」
今度はユルーゲルが首を横に振った。
「分かりません。それこそ、やってみなければ実証はできないでしょう」
「死に至る可能性は?」
「銀竜次第かと。根こそぎ持っていかれれば、可能性は高くなります」
「交渉次第、ということね」
まだ確証ではないが、ユルーゲルの仮定が正しければ、アンリエッタもパトリシア嬢も、命を落とすことなく、解決できるかもしれないわ。
そうなると、アンリエッタの神聖力の制御が、必然になるわね。院長に手配してもらわないと。
そんなジャネットの様子に、ユルーゲルは顔をしかめた。
「銀竜の元へ行かれるおつもりですか?」
「あら、貴方だって、行きたいのではないの?」
「それは……そうですが……」
歯切れが悪そうなユルーゲルを見て、今度はジャネットが楽しげに、次の書類の内容を口にした。
「ふふっ、そこで面白い情報が報告されたわ」
「……それは、私にはあまり面白みのない情報のようですね」
「あら、そんなに警戒しなくてもいいのよ。貴方であって、貴方ではない者の情報なのだから」
ユルーゲルがさらに顔を歪ませた。誰のことを言っているのか、それが分かったからだ。
「一体、この時代の私は、何をしたのですか?」
「察しが早くて助かるわ。院長が言うには、銀竜の出現後に失踪したらしいわ、大魔術師様が」
わざとらしく『大魔術師様』を強調して言って見せた。すると、ユルーゲルは眉間に手を当てた。
「やはり、私も関わっていましたか」
「あら、予想の範囲内だったかしら」
「まぁ、マーカス殿から話を聞いた時、何処かで聞いたことがあったので、もしやと思っていましたが。的中するとは」
項垂れるユルーゲルを無視して、ジャネットは口を開き、話を進めた。
「なら、話は分かるわね。貴方が調べるのは、銀竜の出現した前後の大魔術師の動向よ。郷土史も含めると、かなりの量だから、もう退屈することなんて、ないでしょうから安心して」
「では、ジャネット様の仕事と、どちらが先に終わるか、賭けますか?」
まぁ、まだ言う元気があると言うの! この減らず口が!
「私の仕事は、日々増えていくのよ。勝負にすらならないでしょう、全く」
「いえ、その方がジャネット様も、やる気が出るかと思って進言したのですが、余計なお世話でしたか」
「やる気なら、貴方の報告書を貰うことだから、大丈夫よ」
心配することではない、とジャネットは言い放った。
「では、早々に取り掛からせていただきます」
「ちょっと、何処へ行くの? 紙とペンなら、ここにあるのだから、そっちへ行く必要はないでしょう」
ユルーゲルが扉の方へ歩みを進めたため、ジャネットは慌てて注意をした。
「図書館にですよ。資料を取りに行かなければ、調べられませんから」
「忘れたの? 貴方は私の監視下にあるのよ。それにさっき言ったでしょう。図書館から必要な資料を請求すると」
「そうでした。ならば尚更、図書館に行って、申請する必要があるのではないですか?」
惚けているのか、本当に分かっていないのか、ユルーゲルは何故ジャネットが、自分を止めようとしているのか、理解できない様子だった。
「もう一度言うわ。私の監視下にあるの、貴方は。何故そうなったのか、もう忘れたのかしら」
「……図書館へ行くことすらも、許されないのですか?」
「私が執務室から出られないのなら、当然でしょう。だから、はい。ここに記入して、扉の外にいる警備の者かメイドに頼んで、届けてもらいなさい」
そう言って、ジャネットはユルーゲルに紙とペンを渡した。ユルーゲルは、それでも納得できないのか、渋々それを受け取った。
やっぱり、反省していないじゃないの。
ジャネットは、再び長い溜め息を付いた。
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