テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
⧉▣ FILE_025: 挨拶 ▣⧉
時刻は夕暮れ。傾いた陽に照らされ、建物の輪郭が淡く金色に縁取られていく。
見慣れたはずの景色なのに、今日に限ってはなぜか、遠くて、他人のもののように感じた。
──帰り道。
Lの密命を受けて、Aは足早にワイミーズハウスへ向かっていた。
“ワイミーズハウスの中に、犯人がいる”。
その言葉が頭をよぎった瞬間、Aの足がぴたりと止まる。
──そんなはずが、ない。
心のどこかで即座に否定しようとする。けれど、否定すればするほど──Lの言葉が脳内で反響する。
《Lの居場所を知っていた者》
《噂が流れた場所》
《ワイミーズハウスに犯人がいる》
……根拠は、ある。
論理は、通っている。
むしろ、納得できてしまうことが──余計に怖かった。
「……」
ふと、建物の窓に映った自分の顔が目に入る。
見慣れたはずの顔は、どこか強ばり、知らない誰かのようだった。
他人事ではいられなくなった者の顔……。
「………………っ、」
──やめよう。
今は……考えたくない。
そう心の中で区切りをつけて、Aは再び歩き出す。
冷えた風が頬をかすめていく。
両手をポケットに突っ込んだまま、足だけが前へ進んでいた。
(ニアとメロが……噂の出処を突き止めてくれていればいいけど)
心の奥で、いつの間にか二人を頼りにしている自分がいた。
◈◈◈
──しばらく歩いた先で。
視界の奥に、ワイミーズハウスの姿が見えてきた。もともと教会として建てられた建物は、遠くからでもよく目立つ。
その証拠のように、石造りの尖塔から──カーン、カーン……と澄んだ鐘の音が響いてきた。
「……もう、そんな時間か」
18時を告げる鐘。
みんな、もう夕飯を食べてる頃だろうか。
食堂は、いつものようににぎやかで、パンの香りが漂い、スープの湯気が立っていて──
──今日の夕飯、僕の好物だといいな。
……そんな、呑気なことを“意識して”考えながら。Aはワイミーズハウスの塀沿いを、歩き続けた。
──そのときだった。
前方から、一人の若い男性が歩いてくるのが見えた。
このあたりで人とすれ違うことは、そう多くない。だからこそ、Aはほんのわずかに身を引き、何気ない仕草で道を譲る。
すれ違いざま──
「──こんにちは」
男の口から、ふいに声が落ちた。
Aは思わず振り返る。
反射的に立ち止まり、軽く頭を下げた。
その様子を、ちらりと後ろ目に見ただけで──男は立ち止まることなく、Aとは逆方向へと歩き去っていく。
(……誰だ? あの人)
見覚えはない。
知らない人。
特に怪しい動きがあったわけじゃない。
けれど、なぜだろう。
──背中に、何かが引っかかっている。
気味が悪い。
空気が、ほんの少し冷たくなったような気がした。それが風のせいなのか、それとも──別の何かなのかは分からない。
Aは振り返ることなく、歩き出した。
やがて、門の前に辿り着く。
軽くロックを外し、カチャ、と錠を回す音が響いた。
鍵が開く。
その何気ない動作の中で──ふと、胸の奥にざらついた感覚が残っていることに気づいた。
Aは背後を振り返った。
さっき通ってきた道。
街灯の光が舗道に落ち、木々の影が長く伸びている。
その先に、いた。
さっきの男が、立っていた。
街灯の光と木陰の境目。顔の半分が影に沈み、表情は読み取れない。
ただ、Aの姿だけを捉えるように、ひたすらに“こちら”を見ていた。
「──ひっ……!」
喉の奥から、短い悲鳴が漏れる。
反射だった。
門を押し開け、そのまま中へ駆け込む。
振り返る余裕もない。
すぐに内側から鍵をかけた。
──ガチャン。
鈍い金属音が、やけに大きく響く。
冷えた錠に触れた手のひらだけが、現実を掴んでいるように冷たかった。
「ッ……!」
門の内側で、Aは軽いパニックを起こしかけていた。脳裏から、“じっと見ていた男の眼”が離れない。あの無表情のまま、ただこちらを凝視していた視線が、焼きついている。
Aは早足でワイミーズハウスの玄関へ向かった。ドアノブに手をかける直前、振り返る。
──いない。
さっきの男の姿は、もうどこにもなかった。
門のあたりも、道の先も、人影ひとつ見えない。
Aは再びドアに向き直り、重たい扉を押し開けた。背後の冷えた空気を締め出すように、扉は音もなく閉じる。
靴を脱ぎ、廊下を抜け──足早に、自室のドアを開けた。
そこには、変わらない“彼”がいた。
「おかえり、A」
ベッドの上で、袋菓子を指先でつまみながら、Bがこちらを見上げる。その無防備な声と、飄々とした姿に──Aは、思わず肩の力を抜いた。
コートを脱ぎ捨てるように放り、Bの隣──すぐ横に腰を下ろす。
ようやく、まともに息がつけたような気がした。
「……はあ……」
Bがちらりとこちらを見て、当たり前のように手を伸ばした。
Aの背にそっと添えられたその手は、ほんのりと温かくて、驚くほど優しかった。
「大丈夫か?」
その声に、Aはわずかに頷く。
「……だ、大丈夫」
小さな声で返したものの、呼吸はまだ浅く、心拍も落ち着いていない。
Bの体温がじんわりと背中から伝わってくる。
そのぬくもりに助けられるようにして、Aは口を開いた。
「──さっき……変な人がいたんだ」
門の前で出会った男のこと。
すれ違いざまに「こんにちは」と声をかけられたこと。
一度は通り過ぎたはずのその男が、木の影からじっとこちらを見ていたこと。そして──あの視線が、どうしようもなく気味が悪くて、怖かったこと。
Aは語りながら、しだいに早口になっていく。
掌にはじんわりと汗が滲み、呼吸のリズムも乱れていた。
「……どこに、いたの?」
Bの問いかけに、Aはまだ息を整えきれないまま、震える指で方向を示す。
「……あっち。門の、すぐ外……」
窓の向こう。
ちょうどAの部屋からは、門付近の道が見下ろせる位置にある。
Bは無言のまま立ち上がると、カーテンの隙間に指をかけ、そっと外を覗いた。
「……誰もいないよ」
そう告げる声。
Aは一瞬だけ迷ったあと、そっとBの背中に手を伸ばす。服の端を握るようにして、恐る恐る──その隣から外を覗き込んだ。
──いない。
街灯に照らされた道の先、門の外にも、木立の影にも、人影はどこにもなかった。
「……ほんとだ」
Aは小さく呟きながらも、まだ心の奥に残るざらつきだけは拭いきれずにいた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!