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⧉▣ FILE_026: 欲しいもの ▣⧉
それから、食堂で夕飯。
いつもと変わらない時間。
いつもと変わらない席。
いつもと変わらない、ざわめきと食器の音。
──なのに。
Aの前に置かれた皿は、ほとんど手つかずのままだった。スープに浮かぶ湯気をぼんやりと見つめたまま、スプーンを持つ手が止まっている。
喉が、通らない。
パンをひと口かじる。
──味がしない。
噛んで、飲み込もうとした瞬間。
胸の奥がきゅっと縮こまり、反射的に手が止まった。
(……ストーカー?)
ふと浮かんだ言葉に、背筋がひやりと冷える。
まさか。
そんなはずはない。
──けれど。
(……ハッキング、されたから?)
思考が、勝手に嫌な方向へと繋がっていく。
(……僕の居場所が、割り出されたから──)
胸の奥で、何かが軋んだ。
(──ワイミーズハウスまで?)
背筋を、冷たいものが伝った。
もしそれが事実なら──
どうしよう。
手遅れかもしれないという予感が、喉元を締めつける。ここが“もう安全ではない”という可能性が、現実味を帯びて迫ってくる。
……どうしよう。
皿の上で、スプーンが小さく震えた。
何も起きていない。
まだ、何も確定していない。
それなのに、胸の奥に残るざらつきだけが、じわじわと広がっていく。不安は形にならず、けれど確実に体温を奪っていくようだった。
Aは唇を噛みしめた。
──嫌な予感ほど、よく当たる。
それがただの迷信だと、笑い飛ばせたらどれだけ楽だっただろう。けれど、自分自身がそれを一番よく知っている。
──だからこそ、怖かった。
そんな中──
「わーーーーっ!!」
突然、目元を何かに覆われ、Aは椅子ごとびくりと跳ね上がった。
反射的に声が漏れる。しかも、思いきり大きく。
情けないくらい、驚いた。
「…………………………」
「…………………」
「…………」
食堂の空気が──一瞬で凍りついた。
カチャリ、とフォークの落ちる音だけがやけに響く。ざわめいていた空間が、嘘みたいに静まり返った。
状況を理解するより早く、Aの顔が一気に赤くなる。
食堂中の視線が、自分に集まっているのを、痛いほど感じた。
「……っ、う……うわぁ……っ……」
言葉にならず、ただ情けない声が漏れる。
──そのとき。
「ご、ごめん! そんなに驚くとは思わなくて……!」
少し裏返ったような、けれど聞き慣れた声。
──Qだった。
Aは目を細め、睨むように振り返った。
「……目、隠すことないだろ……っ」
耳まで真っ赤に染めたまま言うと、Qは気まずそうに目を逸らしつつ、照れ笑いを浮かべる。
「いや……でも、ほら。いつもの定番だから……」
その言い訳に、Aは小さくため息をついて、椅子の背もたれへと身を沈めた。
──ほんと、やめてくれ……。
よりにもよって、こんな日に限って……。
「……はあ」
吐き出した息は、少しだけ震えていた。
「なに? 今日は元気ないの?」
隣に腰を下ろしながら、Qが少しだけ声のトーンを落として問いかける。
Aは、またひとつ、ため息を重ねるように答えた。
「……ちょっと、ね」
その一言を聞いた瞬間、Qの声がぱっと明るくなる。
「そんな元気のないAに──Question!」
唐突にテンションが跳ね上がり、Aは思わず目を丸くする。
Qは楽しげに人差し指を立てて、にっと笑った。
「いま、一番欲しいものは?」
「……欲しい、もの?」
言葉を反射的に繰り返しながら、Aはふとスプーンに手を伸ばす。
冷めかけたスープをひと口運ぶと、ようやく少しだけ思考がほどけていくのを感じた。
(僕の……欲しいもの)
改めて問い直してみると、すぐには答えが出てこなかった。
昔なら、すぐに挙げられたはずだ。
パソコンも、推理小説も、ゲームも──僕の居場所も。
でも、今は。
今の僕が、心の奥で本当に欲しているものって──
……安心。
誰にも邪魔されず、目をつけられることもなく。
Lの代わりでも、盾でもなく。
ただ「僕」として、そこにいていいと、言ってくれる人がいること。
それって、たぶん──
Aはスプーンを皿に戻し、小さく息を吐いた。
そして言った。
「……“里親”、かな」
Aがそう答えた瞬間──
食堂の空気が、ぴたりと凍りついた。
さっきまで響いていた笑い声も、食器が触れ合う音も、まるで何かに吸い込まれたように消える。
一瞬にして、音という音が止まった。
Qは驚いたまま、言葉を失っていた。
Bは無表情のまま、視線を落とし微動だにしない。
──“里親”。
その一言は、ワイミーズハウスでは決して触れてはいけない、暗黙のタブーだった。
誰も声に出さない。けれど、皆が知っている。
ここに“本当の里親”が現れることなど、決してない──と。
少なくとも、期待してはいけない。
期待すれば、たちまちそれは“寂しさ”に姿を変える。
だから誰も、その言葉を話題にすらしようとしなかった。
A自身、それを知らなかったわけではなかった。けれど、今の今まで抑えていたものが、咄嗟に口をついて出てしまった。
それが“本音”だったからこそ──余計に、誰も何も言わなかった。
沈黙が刺す。
スープの冷めた匂いが、やけに鼻についた。
「……あ」
何かを言い足そうとして、言葉が喉の奥でしぼむ。
そのまま、小さく消えていった。