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「さて、相手の出方を伺ってもいられません」とユカリは呟く。「早く突破口を見つけないと」
ハルマイトはそばにあった岩に腰かける。「急いでるのか? そういえば待ち合わせをしていると言っていたな。そいつらは大丈夫なのか?」
「ああ、いえ。待ち合わせをしているというのも嘘です」
ハルマイトはユカリに疑いの眼差しを投げかける。「やっぱり信用するのはやめた方がよさそうだな」
「すみません」とやはり素直にユカリは謝罪する。「初めは皆さんを疑っていたんです。そして盗まれたものを取り戻すためにはある程度の距離をとる必要がありました。そういう、魔法なんです」
ハルマイトは呆れた様子で言う。「しかし取り戻せていないわけだ」
「そういうことですね。つまり魔導書を盗んだ人物はある程度の距離を離れていない、ということになります」
「しかしなあ」と言ってハルマイトは辺りを見回す。ユカリもつられて平原を見渡した。「この野っ原に遮るものなんてないぜ? ミーチオンの中では数少ない平原だ。せいぜい無花果の木立だが、人を隠すほどの木じゃない。泉の中にずっと潜んでいるってこともないだろうし、そうだとしても透き通ってて底まで見える。魔法でも使わねえ限り、隠れる場所なんてどこにもない」
ユカリは頷く。
「そういう魔法は多分この世の中に星の数ほどあると思います。そして私にはそれに対抗する魔法がありません」
唯一の対抗手段になりえた迷わずの魔法の魔導書は当のネドマリアに奪われた。このために奪ったのだろうか、とユカリは考えたが、今考えても詮無いことだ。
「とにかく出来ることをするしかありません。ハルマイトさんの方こそ取引がありますよね。期日に遅れれば救済機構がどう考えるか分かりません。とにかく、何とか脱出しないと。妹さんが待ってるんですから」
「それもそうだ。むしろ急ぐべきなのは俺だったな」
「なんだか楽観的ですね」とユカリは呆れる。
「焦ったって仕方ないと思っているだけさ。そういうお前には何か策があるのか?」
この旅で手に入れた魔導書が他にもある。
「まあ、何もないわけでは。少し離れていてください」と言ってユカリはハルマイトを促す。
ハルマイトが距離をとるのを待って鷲の鳴き声を【真似る】。その鳴き声に反応して魔導書に込められた魔法の力がユカリの体を膨らませ始める。
ハルマイトが噴き出すように笑い、ユカリは思わず【悪態をついた】。
「ちょっと! 何で笑うんですか!」と憤慨している内に変身は解けてしまった。
「いや、だって」とハルマイトが肩を震わせながら言う。「突然甲高い声を出すから」
「そういう呪文なんです! 黙っててください!」
ユカリは顔が火照り、鬼火を呑みこんだみたいに熱く感じる。何だって前世のユカリは動物の鳴き声なんかを呪文にしたのだろう。
再びユカリは鷲の鳴き声を【真似る】。その鳴き声に反応して魔導書に込められた魔法の力がユカリの体を泡のように膨らませ始める。両の腕が巨大な翼へと伸展し、全身がざわざわと震えるとともに無数の羽毛が伸びる。まるで玻璃のように透き通った羽根に総身を覆われる。太陽の光がその体に差し込むと、無限に近い反射と屈折を繰り返して再び世に放たれる。
ユカリは一つの羽ばたきで高く舞い上がり、人間が二本足で歩くよりも容易く風に乗った。その高度と強い視力でもって広い平原のずっと先まで見渡す。しかし人影一つない事が分かった。さらにさらに高く、青に塗られた天井に触れかねないほど空高く舞い上がる。
全身で感じる風の感触は人間の時に感じるそれとはまるで違う。羽毛の一つ一つが空気と風から多くの言葉を受け取っている。風の強さにせよ、空気の湿度にせよ、人間の肉体で感じるものに比べ、遥かに詳しく、遥かに多く、遥かに深い。そうして神秘と驚異に近づいていく。
次の瞬間、ユカリは水の中に飛び込んでいた。混乱と恐怖が無遠慮な水を喉の奥へと誘い込む。声が出ない。その為に人間の姿に戻ることも出来ない。見苦しくもがき、日の光の見える方へと進もうと哀れに暴れる。ついに嘴が水面の外に出ると、人間の声でむせび、咳き込み、元の姿に戻ることができた。両手はくうを掴み、両足は水を蹴る。全てから突き放されたような絶望感に飲み込まれる。
気が付くと岸に上がっていた。恐慌に陥り、暴れるユカリをハルマイトが引き上げたのだった。
「おいおい」ずぶ濡れになったハルマイトもまた息を切らせて言う。「何だってさっきまで空を飛んでた奴が突然泉の中から現れるんだ」
その言葉は聞こえていたが、思考が四方八方に飛び散り、ユカリはしばらく答えることが出来なかった。しばらくして息を整え、精神が一つにまとまって初めて自身に見舞われた危機について考えられた。
まさにワーズメーズで散々混乱させられた呪いの一つに違いない。よりによって空と泉を結びつけてあったのだ。確かにあの夜、巨大狼に変身する姿を見せはしたが、そこから鳥への変身を想定し、水の中に送り込む対策を考えたのだとすれば、かなり狡猾な相手だ。
何とか絞り出すようにユカリは言う。「ありがとう。助かりました、本当に。すみません、ずぶ濡れにさせてしまいましたね」
放浪楽団の面々は少し離れたところでこちらの様子を見ている。あまり関わり合いにならないことに決めたらしい。
ユカリは他の方法を考えるが、他の魔導書での打開策は思いつかない。人形遣いの魔導書と守護者の魔導書では身を守るのが精一杯だ。逆に言えば、もしかしたらこれらの魔導書があるからこそ、平原に閉じ込めるだけでこれ以上手を出してこないのかもしれない。このまま衰弱死するのを待っているのだとすればたちが悪い。
あとは交渉を呼び掛けるしかないのだろうか。あちらが聞く耳を持っていればの話だが。
考え込むユカリにハルマイトが呼びかける。「ユカリ、この魔導書は使えないのか?」
すっかり忘れていた。魔導書はもう一つあったのだった。とはいえ、ユカリも遠慮してしまう。
「いいんですか?」
「よかない。だがそんな場合じゃない。使ったら返せよ」
「ありがとう」
ユカリはハルマイトの魔導書を大事に受け取り、文字を読み取る。
それは秘密を暴く魔法だった。呪文は囁き声による質問。どのような質問であっても、その囁き声を聞いた者は秘密を明かしてしまうらしい。
いよいよ交渉するしかなさそうだ。賭けになるが、やってみるしかない。
ユカリはハルマイトにすべきことを伝え、ハルマイトは楽団の長アムニウスに、アムニウスは楽団の面々に伝えた。
問題は放浪楽団だ、とユカリは心の中で確認する。ハルマイトはともかく、なぜ彼らが巻き込まれたのか、それが頭の中から抜け落ちていた。
ユカリは魔導書を全て合切袋に入れると、呼びかける。「ネドマリアさん、の中の誰かさん? 取引は出来ますか?」
ほんの少しの躊躇いもなく、木の陰から出てきたかのように何もない空中からネドマリアが現れた。肘掛け付きの長椅子と酒瓶の乗った脇机と共に。
垂れた目の琥珀色の瞳、意志の強そうな眉。鳶色の捻じれた髪も華奢な体も変わらない。
しかし瞼を妖艶に塗り、唇にはりゅうとした紅を引き、清らかな白粉をはたいている。真紅の衣は胸元がはだけ、腕も足も露わになっていた。青玉の指輪や腕輪が幾重にも輝きを放ち、蛋白石の深い煌めきが喉元や耳元を彩る。数多の美と華を飾り立てている。
ネドマリアだが、ネドマリアでないことは一目瞭然だった。
ネドマリアらしき人物は、上張り地に柔らかそうな詰め物をした天鵞絨の長椅子に寝転がり、白い足を投げ出している。
「アタクシを呼んだのかしらユカリちゃん」ユカリが頷くのを見てネドマリアらしき人物は微笑みを湛え、言葉を続ける。「よくアタクシだと分かったわね」
「まあ、それなりに長い時間を過ごしましたし、ネドマリアさんには多くのことを教わったので。というか他にこういうことが出来そうな知人がいないんですけどね」