テラーノベル
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「お疲れ様です、課長」
あるいは、軽く手を上げて、
「お疲れ様でーす」
そんな何でもないやり取りで済んでいたはずの距離が、今はどこにも着地しない。
(これは……)
実感を伴って理解する。
(俺をどう扱えばいいのか、決めかねてるんだな)
もう、曖昧な段階はとっくに過ぎている。
社内で、晴永をとりまく〝何か〟が変わったのは明らかだった。
歩き出す。
それまで聞こえていた会話が、晴永を見た途端、水を打ったように一瞬途切れる。
そして――すぐに、何事もなかったかのように取り繕った様子で再開される。
だが、その〝間〟がすべてを物語っていた。
「……新沼課長――」
晴永を見かけて呼びかけてきた部下が、言葉を止める。
一瞬だけ迷ったあと、言い直した。
「……新沼……社長補佐」
言い切るまでに、わずかな間があった。
呼び慣れていない肩書き。
それを無理に当てはめたような、ぎこちなさ。
その呼び方に、胸の奥がわずかに引っかかる。
課長でもなく。
名前でもなく。
晴永ですら耳馴染みのない〝役職〟として扱われた呼び方。
明らかに部下たちが、晴永との距離を測りかねている。
(……面倒くさいことになったな)
心の中で短く息を吐きながらも、足は止めない。
だが――。
通路の向こう。
本来なら、真っ先に視界に入るはずの姿がないことに気づいた途端、足が止まりかける。
(……瑠璃香?)
机。椅子。その周囲。
視線だけで愛しい彼女の姿を探す。
だが――フロア内には、やはりいないようで……。
その事実が、じわりと胸の奥に引っかかった。
そうしてさらに気づく。
(……朝食も、ない)
少し早めに出て、置いておくとメモ書きにあったはずの、それが――ない。
(……置けなかったのか?)
理由を探そうとして、やめる。
ここで考えても、答えは出ない。
無意識に、ポケットのスマートフォンへ意識が向いたが、瑠璃香からの連絡は来ていなかった。
それでも、指先がわずかに落ち着かない。
動揺を悟られないよう、静かに視線を外す。
周囲からの、ひそひそとした声が耳に入る。
「副社長の息子って……」
「じゃあ、会長の――」
「創業家の人間ってことだろ」
「苗字違うの、なんで?」
断片的な言葉。
だが、どれもあやふやさはない。
噂ではなく、すでに〝事実〟として扱われている声だった。
椅子に腰を下ろし、パソコンの電源を入れる。
――今は、こっちだ。
さっき、「社長補佐」などと呼びかけられたのも気に掛かる。
はやる思考を押し込めるように、いつも通りの手順をなぞる。
パソコンが立ち上がるまでのわずかな時間すら、妙に長く感じられた。
ログインして、社内システムを開くと、未読通知が一件届いていた。
件名は簡潔――。
『人事発令』
#夢
凪川 彩絵
すべての違和感を裏付ける件名に、無意識に眉根が寄った。
ある意味、案の定、というべきかもしれない。
晴永は吐息を落としそうになるのを堪えながらカーソルを合わせてクリックすると、画面に表示された文面を一瞬で読み取った。
【人事発令】
本日付で、下記のとおり人事異動を発令する。
新沼 晴永
企画宣伝部企画宣伝課課長の任を解き、社長補佐を命ずる。
短い文章。
だが、それで十分だった。
(……確定か)
逃げ道は、もうない。
コメント
1件
社長補佐!るりかちゃんとの距離ができちゃう!?