三年ぶりの川越は、肌寒いなかにも、懐かしい匂いがした。人間は嗅覚で記憶をしている。……課長の匂いが懐かしい。
わたしの部屋のベッドから、課長の匂いが消えていく……そのことが悲しかった。勿論、課長の置き残しは捨てるはずがない。捨てられるはずがない。
12月29日。わたしは実家に帰省している。『あの記憶』が残る故、怖くて帰省出来なかった。パンドラの箱をわたしは開いている。
ドラッグストアがあったところが潰れてコンビニに変わっていたり、三年のあいだに街は変化を遂げていた。
歩いて十五分程度。身を切るほどの冷たさに晒され、課長のくれたパーカーのぬくもりを感じながら、わたしは、これまでに起こった様々のことを整理していた。……広河さんは、相変わらず、わたしを見れば口説いてくるし、課長も相変わらずで。広河さんが課長だったらいいのになあ、と思うことがある。神様の不条理。
実家に辿り着くと、わたしはインターホンを鳴らした。「ただいまー。莉子です。帰りました……」
「おかえりなさい。開いているから、入って」
インターホンから、母の弾んだ声が聞こえた。
久しぶりに実家の鍵を握り締め、玄関から入った。懐かしい匂いが染みる。実家の香り……生まれ育ってきた懐かしい香り。
見た感じ、実家はなにも変わらなかった。玄関が靴で散らかっているのもいつものことで。
「あら莉子。髪切ったのね? 可愛いじゃなーい!」
照れくささ混じりでわたしは答えた。「……ありがとう。お母さんのほうこそ、ショートヘア似合っているよ。可愛い……」
最後に母に会ったとき、前髪は長めのボブスタイルだったように思う。それがいまはフレッシュなショートカットだ。
「さぁさあがってあがって!」と母はわたしのボストンバッグを持ち、「莉子。あなたったら全然帰ってこないんだからぁ。寂しくしてたのよー。お父さんにも、元気な顔を見せてちょうだい……」
玄関に出てこない父を、わたしは不思議に思って訊ねた。「お父さん、いま、なにやってるの」
「ウイイレ」しかめっ面で母が答えた。「もうね、大掃除しましょ、って朝から言っているのにね……本当、あのひとったら、いやんなっちゃう。サッカー馬鹿で……」
「わたしも手伝うよ。荷物置いたら着替えてくるから」一旦台所に向かい、手を洗うと、リビングでテレビゲームに耽る父の姿が。わたしは彼の前に回り込んで挨拶をした。「お父さん。ただいま」
「おうおかえりー。元気してたか?」
三年ぶりに帰省する娘に対してその反応。ゲームから視線を譲らないところが憎らしくもある。「……元気にしてました。お父さんは、相変わらずだね……」
『相変わらず』という言葉に嫌味を込めたつもりだったが、伝わらなかったらしい。彼がコントローラーを手放すことはない。
父に呆れを覚えつつ、二階の自分の部屋だった部屋に戻り――そこはそのままにしてあった――着替えてエプロンをしてから一階に戻ると、母が、キッチンの掃除をしているところだった。
「手伝おうか?」とわたしが言うと、「ううん。いいのよあんたは……。せっかく帰ってきたんだから、ゆっくりなさい……」
そう言われても。
年末の大掃除は、いつも初日から取り掛かり、キッチンが母、風呂場が父と、役割分担をしていた。幼い頃からわたしは、自分の散らかった部屋や、リビングに置きっぱなしのあれこれを、ここぞとばかりに年末に一気に整理をしていたのだが……自分が不在だったばっかりに、わたしのものはすべてわたしの部屋に戻されてるようだ。ここで、父の仕事を奪い、風呂場の掃除をしようものなら、母が機嫌を悪くするし……さてどうしたものか。
とりあえず、網戸の掃除と窓磨きをすることにした。これなら支障があるまい。
庭から見る、家族の構図。……母は常に家で働き、父は家でだらだらと。改めてみると、……結婚って不条理の塊なのかなあ。課長は、どういう家庭で育ち、なにを当たり前として生きてきたのだろう……そんなことを思う。
もっと、聞き出せばよかった。最後の晩も、結局わたしが喋ってばかりで、彼の話を聞き出せなかった。生い立ちとか……思想とか。
雑巾で窓を磨きながら課長のことを思う。課長のことが――無性に恋しかった。
* * *
カップラーメンで簡単にお昼を済ませ、引き続き掃除を続ける。全体に掃除機をかけると、水拭きをした。兼業主婦の母は、どうやら手が回らないらしく、結構汚れている。前もって、自分のマンションの掃除をしておいてよかった。流石のゲーム狂いの父であっても、家族二人が懸命に掃除する空気を察してか、お昼の後は掃除を始めた。
十五時になると母が、
「買い物に行きましょう」
と言いだして、歩いて行ける距離のスーパーへと向かう。うちの両親は車を持っていないので、こういうときに、人手が必要となる。
「莉子ちゃん。夜はすき焼きでいいわよね?」
……すき焼き。なんという素敵な響き。一人暮らしだと勿論すき焼きなんて食べる機会がないから、迷わずわたしは頷いた。「うん。食べたい……」
「じゃあ、いいお肉にしましょう」と言って値段を見ずにパックをどさどさとかごに突っ込んでいく。……母が、離婚をせず、共働きをする理由……。
『欲しいものが買いたいから』と母は言っていた。『我慢をするのがいやだから。お母さん色々なものが欲しいから』
あるとき母はこうも語っていた。
『お母さんが一生懸命働いているから、莉子ちゃんは、小さい頃からいろんなものを買って貰えたし、大学にも行けたのよ』
きょうだいのなかで末っ子だった母は、下の娘であるゆえに我慢を強いられた場面があったらしい。――課長の発言が思い出される。言い方はアレだったが、一理あるのだ。彼の主張は。
『金なんて、愛情を表現する一形態に過ぎないんだよ』
わたしは、高校時代と大学時代の二回も、一ヶ月間留学をしたから、ある程度の語学力が身についた。課長や、広河さんほどのレベルではないにしても。うちの会社は外資系企業との合弁会社でもあるから、働くには英語が必須。つまり、わたし自身や親の努力なくして、いまの会社への就職は、あり得なかった。そういうことだ。
買い物を済ませ、帰宅すると、買ったものの整理をするのは母だ。家事の八割を母が担っている。とはいえ、父が手伝うさまに驚かされた。このひとは、休日であっても、すべて母任せだったはずが……。なかなかてきぱきと買ったものの仕分けをするさまが板についている。
邪魔にならないよう、わたしは、まな板をダイニングに持ち込み、野菜を切った。大皿に盛り――父がすき焼き鍋の準備をし、こうして、久々の実家でのすき焼きを味わうこととなった。
* * *
「――わ。美味しい……この肉美味しい!」
「そりゃそうよ。この肉、グラム3000円もしたんだから……」
「えっそんなにしたの」
「莉子が来たから今日は特別」
「明日もすき焼きだなあこりゃ……」呆れたように父。「んなに食えねえよ。ママは、買い過ぎなんだよいつもいつも……。莉子が来るからって張り切っちまって……」
確かに、うちは、年末はすき焼きで。二日連続すき焼きを食べるのが習わしで。それから、三日目は魚屋さんで冷凍の蟹を買い、カニ鍋にする……思えば、うちの家庭は結構裕福だった。母からは『買うものをひとつに絞りなさい』と言われることはあれど、父はバブリーなひとで、なにか買って欲しいものがあるときは意図的に父に買い物に連れて行って貰った。小賢しい娘だったと思う。
「いいじゃないの。パパったらごちゃごちゃ煩いんだから……」酒が回ると母は饒舌になる。「せぇっかく、莉子が久しぶりに帰ってきたんだから、楽しみましょうよ……」
「そっちでうまくやってんのかー?」とビール入りのグラスを傾ける父。「そんなに寄り付かないっつうことは、おまえはそっちで楽しんでるってことだよなあー」
「まあ……はい。そうです……」
「お父さんったら莉子が帰ってくるって聞いてからずっとそわそわしてて……」嬉しそうに母は、「このひとこーんな顔してるけど、ずっとずっとね。ゲーム片手に『莉子はまだか?』『まだ来ないのか?』ってずーっとずっと、煩かったんだから……」
そうなんだ。
お父さんは基本的にはわたしにはあまいけれど、でも、ゲームやサッカーのことになるとひとが変わったようになって。わたしよりもそちらを優先するところが、憎かった。男性にあまり興味が持てなかったのも、父のことが原因だったと思う。反抗期は思い切り反抗をした。……けれど。
これが、このひとの愛情表現の仕方なのだ。プライオリティを自分の趣味に置き、家族は二の次。それはそれで、彼の生きる道なのだろう。母といえば、そんな父に愛想を尽かすこともなく、ただ、受け入れているようであった。
夫婦のかたちはひとそれぞれ。
予想通り、素早く夕食を食べ終えると、父は、リビングのテレビを独占し、ゲームに現を抜かす。わたしたちはそんな父に呆れながら、でも、食事を楽しんだ。
* * *
「お母さん……」
「あら」とパソコンに向かっていたかに見えた母が顔をあげた。「どうしたの。眠れない?」
リビングに隣する個室が、母の部屋だ。母は、わたしが小さい頃は、わたしの部屋で寝ていたが、わたしがひとりで寝るようになってから、主にこの部屋で生活をしている。
わたしの顔色を見て母は、
「お酒でも飲みましょう」と持ち掛ける。「せっかく……莉子ちゃんが帰ってきたんだものね。じっくり……話を聞かせて」
*
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