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はるか
2,082
刻期若菜は人と話したくなかった。
大学の講義・アルバイト・すべて最低限のやり取りで済ませ、帰宅後は部屋の電気を消したまま、ただ壁を見つめていた。
誰かが声をかけてくれば、短く返事をする。
それ以上は何も言わない。
笑顔も、言い訳も、愛想も、すべて放棄した。
世界はうるさくて人の言葉は毒だった。
そんな彼女を久遠零士は最初から見逃さなかった。
同じゼミの先輩で成績優秀。
周囲から好かれ笑顔を絶やさない男。
けれど若菜だけはその笑顔の奥にあるものを、早い段階で見抜いていた。
「また一人でいるんだ」
「……」
「話しかけても無駄だって、みんな言ってるよ。でも俺は違う」
零士は若菜の無反応を「拒絶」とは受け取らなかった。
むしろそれを特別だと信じ込んでいた。
「お前が誰とも話さないのは俺以外に価値がないからだろう」
ある夜、若菜は帰宅途中で意識を失った。
目が覚めたとき、そこは知らない部屋だった。
窓はない。
壁は防音材で覆われ、床には薄いマットが敷かれているだけ。
ドアは一枚。重厚で外側からしか開かない。
部屋の中央に小さな机と椅子。机の上には水といくつかの錠剤。
「起きたか」
零士の声が天井のスピーカーから落ちてきた。
「ここはお前の新しい家だ。外はもう必要ない。俺が全部用意する」
若菜は動かなかった。声も出さなかった。
ただ、壁を見つめた。
「お前が黙っているのは俺を試してるんだろ。いい。好きなだけ黙ってろ。俺はお前の沈黙も全部受け止める」
最初の三日間、若菜は水以外を口にしなかった。
零士はそれを見て満足そうに笑った。
「拒絶してるな。嬉しいよ。誰にもなびかないお前が俺だけを拒絶してる」
四日目、若菜は錠剤を飲んだ。
空腹と疲労で判断力が鈍っていた。
薬は強い眠気を誘い意識が沈む。
目が覚めると零士が部屋の中にいた。
「怖がるな。俺はお前を傷つけない。ただ外に出さないだけだ」
零士の視線は熱を帯びていた。
独占欲そのものが肉を持って歩いているようだった。
「お前が誰とも話さない理由を俺は知ってる。人はみんなお前を利用しようとする。言葉を使って心を開けさせようとする。でも俺は違う。俺はお前の沈黙をそのまま受け入れる」
若菜は壁に背を向けたまま小さく息を吐いた。
「……出て行け」
初めての言葉だった。
零士の表情が一瞬で輝いた。
「言った。お前が俺に言葉をくれた」
それから零士の執着はさらに深まった。
食事の時間を厳密に管理し、薬の量を調整し、若菜の睡眠サイクルを観察した。
彼女が少しでも抵抗の気配を見せれば即座に対応した。
電気を消しスピーカーから自分の声だけを流し続けた。
「お前は俺のものだ。外の人間はお前を理解できない。俺だけがお前の孤独を知っている」
若菜は、ある夜机の脚を折ろうとした。
失敗した。
翌日、机は床に固定され椅子は撤去された。
「無駄なことはするな。お前が傷つくだけだ」
零士は優しく言った。
まるで本当に心配しているかのように。
監禁は二週間を超えた。
若菜の体は薬と狭い空間に適応し始めていた。
思考が鈍くなり時間の感覚が曖昧になる 。
零士の声が唯一の外部刺激になっていく 。
ある日、零士が直接部屋に入り若菜の前に座った。
「お前、まだ俺を嫌ってる?」
若菜は答えなかった。
「いい。嫌いでも構わない。嫌いなまま、俺のそばにいろ。それが一番だ」
零士は若菜の手首を掴んだ。力は強くない。けれど離さない。
「お前が誰とも話さないのは、正しい選択だった。人は信用できない。でも俺は例外だ。俺はお前を誰にも渡さない」
若菜は初めて彼の目を見た。
そこには愛情と呼べるものが確かにあった。
歪んで、熱く、排他的で、相手の意思を完全に無視した愛情。
「……お前は病気だ」
若菜が言った。
零士は笑った。
「そうだな。お前という毒に中毒してる」
彼は若菜の頰に手を当てた。触れ方は慎重でほとんど丁寧だった。
「だからここから出せない。お前が消えたら俺は死ぬ。お前が外に出たら俺は狂う。だから閉じ込めている。これが俺の優しさだ」
若菜はその言葉を聞いて、初めて本気で怖くなった。
零士は自分が正しいと信じている。
若菜を守っていると信じている。
そしてその信念は、彼女の拒絶を燃料にして、ますます強くなっていく。
三日後、若菜は再び薬を拒否した。
零士はすぐに気づいた。
「また抵抗するのか。いいよ。俺は何度でも付き合う」
その夜、部屋の照明が消えた。
完全な闇。スピーカーから零士の声だけが繰り返し流れた。
「お前は俺のものだ」
「外は危険だ」
「俺以外に、お前を理解できる人間はいない」
「お前が黙っている間も、俺はここにいる」
「永遠に」
若菜は闇の中で壁に額を押しつけた。
この男は彼女を殺すつもりはない。
むしろ、彼女を「生かし続ける」ことに執着している。
息をして黙って彼の視界に存在する限りそれでいいと思っている。
それが最も恐ろしいこと だった。
数日後、零士が再び部屋に入ってきたとき若菜は静かに言った。
「……どうすれば終わる」
零士は心から嬉しそうに微笑んだ。
「終わらないよ。これがお前と俺の正しい形だ」
彼は若菜の肩に手を置きそっと引き寄せた。
「お前はもう俺の独薬だ。一度中毒したら二度と手放せない。だから俺もお前もここから出ない」
若菜は目を閉じた。
この部屋に窓はない。
出口もない。
ただ零士の声、彼の視線、終わりのない独占があるだけだった。
そして彼女は徐々に理解し始めていた。
零士が言った「中毒」という言葉は彼だけのものではないのかもしれない、と。
この閉塞した空間と唯一の他者である男の存在がいつか自分の思考のすべてを侵食していくのではないか、と。
それでも若菜は抵抗をやめなかった。
声を出さない。目を合わせない。彼の言葉に反応しない。
それが彼女に残された最後の、唯一の武器だった。
零士はそれを見てますます愛おしそうに笑った。
「いいぞ。もっと嫌え。もっと黙れ。お前の拒絶が俺を生かしてる」
暗闇の中で若菜は静かに息を殺した。
この男は彼女を殺さない。
ただ彼女を「自分だけのもの」として、永遠に閉じ込めるつもりだった。
そしてその執着はすでに毒となって、二人の間に蔓延り始めていた。
終わりのない、独薬の檻の中で。
コメント
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みゆさんの新作、読ませてもらいました……! 久遠零士の「優しさ」が全部、自分を正当化するための言葉で、読んでいてゾッとした。でも、彼の執着が歪んでいるからこそ、若菜の沈黙がすごく際立ってて、二人の関係性がもう引き込まれる。 「嫌いなまま、そばにいろ」って台詞、めっちゃ刺さった……これが彼なりの愛情なんだって思うと、怖いけど目が離せない。 続き、すごく気になります。