テラーノベル
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紬が泣き崩れた夜から、しばらくの間、時間は穏やかに流れていた。
朝は一緒にコーヒーを飲んで、
夜は短いメッセージを交わす。
「今日はどうだった?」
「ちょっと疲れたけど、大丈夫じゃないって言えた」
そんな言葉が、少しずつ増えていった。
だからこそ、
その話を切り出すのは、怖かった。
「紬」
夕方の公園。
風が、もう少しだけ冷たい。
「話がある」
その声の硬さに、紬はすぐ気づいた。
「……なに?」
ベンチに並んで座ったまま、
僕は空を見た。
「少し、遠くに行くことになった」
紬の呼吸が、一瞬止まる。
「遠くって……?」
「転勤」
短い言葉なのに、重かった。
「期間は?」
「分からない。長くなると思う」
沈黙が落ちる。
紬は、膝の上で手を握りしめていた。
爪が食い込んでいるのが見える。
「……そっか」
声は、驚くほど落ち着いていた。
「おめでとう、だよね」
その言葉に、胸が痛む。
「無理しなくていい」
そう言った瞬間、
紬はゆっくり首を振った。
「大丈夫」
その言葉が出たことに、
紬自身が一瞬、怯んだ。
「あ……」
口を押さえて、目を伏せる。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
でも、紬の肩は小さく震えていた。
「ねえ、陽介」
顔を上げる。
泣いていないのに、今にも泣きそうな目。
「行かないって、言わない?」
分かっていた。
それが、どれほど勇気を振り絞った言葉か。
「言いたいよ」
正直に答える。
「でも」
言葉を探す。
「行かなかったら、後悔する」
紬は、ゆっくり息を吐いた。
「……うん」
「紬」
「分かってる」
少し笑ってみせる。
「ちゃんと選んでるってこと、でしょ」
その“ちゃんと”が、
どれだけ自分を納得させるための言葉か、僕は知っていた。
帰り道、紬はいつもより多く喋った。
今日見たもの、聞いた話、どうでもいいこと。
沈黙が怖いみたいに。
別れ際、紬は言った。
「ねえ」
「うん」
「行く前に、ちゃんと会おうね」
「……うん」
「いっぱい、会おう」
その笑顔が、痛いほどだった。
出発の日が近づくにつれて、
紬は、前より強がるようになった。
「大丈夫だよ」
「一人でも平気」
そのたびに、胸が締めつけられる。
前の夜、紬は僕の部屋に泊まった。
布団に並んで横になって、
電気を消したあと、紬はぽつりと言った。
「ねえ、陽介」
「なに?」
「行ってもさ」
少し間が空く。
「私のところ、帰ってきてくれる?」
「帰ってくる」
即答だった。
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
紬は、布団の中で僕の袖を掴んだ。
「……私ね」
声が、少しだけ震える。
「置いていかれるの、すごく怖い」
その言葉を、やっと言えたことが、
胸にくる。
「置いていかない」
「でも、遠くに行くじゃん」
「距離は、置いていくことじゃない」
そう言いながらも、
自分に言い聞かせているのが分かる。
紬は、しばらく黙っていた。
「……泣いたら、行きにくくなる?」
「なる」
正直に答える。
「じゃあ」
小さく息を吸って、
「今は、泣かない」
その強がりを、
止めることはしなかった。
朝。
駅のホーム。
人の波の中で、紬は僕の前に立っていた。
「行ってきます」
「……うん」
「ちゃんと、ご飯食べて」
「それ、そっち」
少し笑う。
電車が来る音が、近づく。
「陽介」
「なに?」
紬は、ぎゅっと僕の服を掴んだ。
「私、大丈夫じゃないと思う日、たくさん来ると思う」
「……うん」
「でも」
目を逸らさずに言う。
「それでも、待つ」
胸が、いっぱいになる。
「会いに行くよ」
「何度でも?」
「何度でも」
ドアが開く。
一歩、離れる。
紬は、最後まで泣かなかった。
笑って、手を振った。
電車が動き出してから、
僕は初めて、息が苦しくなった。
遠くに行くのは、
物理的な距離だけじゃない。
紬の隣に、すぐ行けない距離。
それでも。
つよがりの君に、
僕はこれからも会いにいく。
遠くにいても、
名前を呼ばれなくても、
白石紬が、
「大丈夫じゃない」と思ったその瞬間に。
たとえ、今は
離れた場所にいても。
コメント
2件
え泣きそう、🥲