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「お帰りなさいさとちゃん。どうだった?」
顔色で読み取ったらしい。美凪を抱っこした士川(しかわ)澄子(すみこ)は苦笑いしつつ聡美を室内へと促した。「疲れてるでしょう。いま、あったかいお茶を入れるわね」
「ありがとうございます」深く言及せぬ澄子の気遣いが胸に染みた。
士川澄子は、聡美の夫・士川厚彦の姉である。聡美と同じ年齢である厚彦とは十歳離れており、聡美にとって義姉というよりも頼れる近距離のお姉さんといった感じである。
ダイニングに座って澄子から出された茶に口をつけると、やっと肺に息が通る気がした。見透かしたかのように、澄子は、
「やっぱり厳しかったでしょう。シンママが部屋を借りるのは……」
「ほんとに」と聡美。ありがとうございます、と湯飲みを遠ざけると、傍でおすわりをしている我が子に近づき、「離婚が成立してないってのもネックで。不動産屋三つあたりましたけど、どこもいい顔はされませんでした」
抱き寄せた美凪のあたたかみを感じつつ聡美は、「離婚で揉めるのも先方は危惧してるみたいで。一軒めなんて『成立してからお越しください』ってほぼ門前払いでした。まあ、仮に成立してもあそこだけは行かないって決めてますけど……」
寂しげにこぼす聡美に澄子は、「どこに住むつもりなの?」
「ランド辺りあたってみたんですけど、特に希望はないです。この辺以外で会社から近ければ……」
「急行止まる駅ってやっぱ高いよねえ」よいしょ、と聡美の隣にしゃがみこむ澄子。「狙い通り、各停停まるとこがいいと思うよ。ほんで」
ばあっ。
と手を広げ、おどけてみせる澄子。まだ意志疎通をする段にない赤子の美凪は目を丸くする。言葉が通じなくとも、自分に話しかけられているものだと分かるらしい。その反応を愛おしげに見つめる澄子は、
「すみちゃん。
て呼んでねえ。なーぎちゃん。ほんとに可愛い、可愛いねえ……」
あー、あー、と発声する美凪にテンションのあがる澄子。確か息子さんが二十三歳で自身は二十歳のときに出産したと聞いているが――こちらの女性に『おばちゃん』という呼称は禁句らしい。美凪が生まれる前から『すみちゃんて呼ばせてね』と口酸っぱく言っていた、美凪の伯母にあたる澄子は美凪の頭を撫で撫でする。たまらないといった笑みをこぼしていたのが一転。低い声で、
「にしてもこんな可愛い赤ちゃんがいるのにあの馬鹿は……」
電話口で短く事情を話しただけだが澄子は察したようで。夫のアル中が原因で離婚し、女手一つで息子を育て上げたシンママとしては、実弟よりもゲーム依存の夫に悩まされる弟嫁のほうにシンパシーを感じるものなのかもしれない。
――美凪と二人で住む物件を探そうと思っているので突然で申し訳ないですが澄子さん。美凪のことを見て頂けませんか。澄子さんのどこか都合のつく日で構いませんから……。
『勿論。明日にする?』と澄子は快諾した。続いて、『なにあの馬鹿。まぁたさとちゃんに迷惑かけたの?』
――本当に、うちの愚弟が、申し訳ない。
事情を聞く前に詫びる澄子の態度に触れ、『母親らしいな』と聡美はそのとき感じた。同時に、真っ先に元々は他人である自分の言い分を信じてくれる澄子に好感を抱いた。
聡美の目から見て士川家はいわゆるDQN一家であるが――家に呼べば妊婦であった聡美に風呂洗いまでさせたり。聡美の年齢を、子どもを産むにはふさわしくないと決めつけ、生まれてくる子どもがダウン症に違いない、検査を受けたほうがいいと騒ぎ立てて夜中に電話をしてきたり――今日日、四十歳前後で産む女性も珍しくないというのに――娘である澄子のほうは、あの親に育てられたとは信じがたいくらいに常識的な女性だ。澄子が男だったら結婚していたと思えるほどに。
澄子は年配の客をターゲットとしたスナックの雇われママの仕事をしている。因みに女性ひとりでの来店も珍しくないという。妙齢を迎えた頃から女は新しく友達を作るのが難しくなる。
澄子は昼夜逆転した生活を送っていると思われるため、聡美が自分から澄子に連絡を取ることは躊躇われた。自称ショートスリーパーで二三時間寝れば足りると聞いていても、夜働く人間に昼間会おうというのも無茶だと思い。
今回。離婚をするにあたっては先ず部屋探しだと思い、娘を澄子に任せ、会社から近距離の駅に降り、不動産屋に行ってみた。
世間の風はやはりシングルマザーには冷たかった。
『離婚を考えています』といえば『何が原因? アル中とかギャンブルとか、うちそういうの困るんだよねえ。旦那がストーキングして揉めると厄介だからさあ』――成立してからお越しください、とけんもほろろに返され。
二軒めも。――赤ちゃんねえ。うるさいってクレームが来んのよ。それに、小学生になったら一人でお留守番させるんでしょう? 困るんだよね。火事だのボヤだのトラブルでも起こされたらたまったもんじゃない。男の子だと煙草吸ったりなんかするでしょう?
片親への偏見が明らかだったため彼女は次に目についた不動産屋へと入った。――が、似たようなものだった。
なんだろう。あたしには、子どもを育てる義務が課せられたのに、自由は与えられていないわけ? 世の中の不条理を感じた聡美であった。
先ずは、離婚だと彼女は思った。新しく住む部屋を見つけるには迅速に離婚を成立させ、不動産屋にトラブルなど皆無だとアピールせねばならない。
きゃあっ、きゃっ、きゃっ、きゃっ……。
聡美が思考を走らせる一方で美凪が高い声を立てて喜ぶ。こちらの伯母さんならぬ澄子は子どもを遊ばせるのが上手だ。赤子も子どもの範疇に入るらしい。まだ自分の意志をはっきりと表明出来ない年頃であるが、澄子のほうは手で鶴やきつねさんを形作り、美凪の興味を引いている。
こうして上手に遊ばせることの出来る澄子の姿に劣等感を抱かないといったらそれは嘘になる。自分など、お世話をするだけで精一杯。その感情を素直に吐露すると、
「いいんじゃない」と澄子は微笑む。
まだ、ゼロ歳でしょう? ママは授乳や抱っこをするだけで手一杯の時期よ。ほうっておいてももう三年もすれば、ママママーって自分から遊びたがるようになるわよ。そこから更に五年もすれば、今度は友達とばかり遊びに行ってママのほうが寂しくなるわ。
焦らなくていいの。最低限のお世話だけしてれば子どもは自然と育つわ。完璧なママなんてどこにもいない。ゆっくり、子どもと一緒に成長していけば、それでいいんじゃないかしら。
「抱っこしていい?」
「勿論です」
子育てを経験した人間に共通の慣れた手つきで抱き上げる澄子。「まだちっちゃい。軽いわねー」
ねえ。
「高い高いしていい?」
「いいですよ」
美凪の脇腹に手をかけてしっかり支え、上手させる澄子。その姿を見ているうちに……、
涙が沸いてきた。その様子に気づくと澄子は美凪をそっと下ろし、
「辛かったねさとちゃん……。うちの元旦那も、アルコールにおぼれて我が子に見向きもしなかった馬鹿だから気持ちは分かるよ。
よくねえ。『不出来な夫を更正させるのが妻の役目』だなんてのたまう人間がいるけど――。
なに言ってんのって話だよね。こっちは初めての育児にてんてこ舞いだっての。旦那は、自分の面倒くらい自分で見ろって話」
こちらの女性も離婚のことで相当嫌な思いをしたらしい。聡美に対する同情の感じられる口調だ。
良妻賢母、という便利な言葉があるか、良夫賢父なる言葉は存在しない。いかに世の人間が過大なる欲求を母親だけに押し付けているかが目に見える表現である。
「まあ、弟だから言うわけじゃないんだけどさあ」遠慮がちに、聡美を気遣うように澄子。「あいつ、言われたことしか出来ないマニュアル人間なの。ずっとずっと、さとちゃんが悩んでること、あいつ、ちっとも察していないと思うよ。
男って馬鹿だからさあ。言わなきゃ分かんないのよ」
ひとり。育児に向き合ってきた苦しさ。
幸せのほうが勝るけど、孤独で、孤独で。
家族を顧みない夫を見限って娘と二人きりの人生を歩もうとしたところ、出足から躓いてしまった。
煩悶の只中にいる聡美に対し、澄子は、
――仮にあの馬鹿がちゃんとさとちゃんの話を聞いたとして。
「離婚する意志は、変わらない――?」
「変わらないです」涙を拭き、断言する聡美。彼女のなかで、夫への憤りは、修復不可能なレベルに達している。――もう。
「存在自体が嫌なんです。同じ室内に居るってだけで息が苦しくなる。同じ空気を吸っていること自体が――耐えられない」
「そっか。ママの精神衛生上よかないね。大変大変」今度は聡美をよしよしする澄子。たまらず聡美が吹き出すと澄子は、――そ。
女は、笑ってるほうがいいの。くよくよ悩んでたら、短い人生が、もったいない。
「男って基本馬鹿だからさあ」と繰り返す澄子。「察することの出来ない性別だから、そんなに我慢出来ないんだったら別れるのも手だね」
シンママの先輩ならここにいるから、なんでも頼ってね。
「ママー。負けるな。がんば。おー!」
美凪の手を握り、澄子は力強く、聡美を明るい未来へと送り出してくれた。
その夜のことだった。
お風呂や夕食を済ませてからのほうがいいだろうと思い、寝室に入るのを待って行動に移した。幸い、美凪は別のいつもの寝室で寝てくれた。
単刀直入に彼女は切り出した。「ねえ。離婚したいんだけど。いい?」
昨日と同じように見える夫の丸まった背中。
淀みないタイプ音がすこし途切れた。――が。
ただそれだけのことだった。
振り返る夫の目が濁って見えたのは偏見ではないと思う。がすぐに画面に戻り、
「……はいはい。分かったけど、慰謝料とか払わねえからなおれ」
――ワンオペ育児に悩める妻にかける第一声がそれか。むっとして彼女は、
「要らない。養育費だけちょうだい。月五万円」
「……めんどくせ」
吐き捨てるように夫。それでもチャットを止める気はないらしい。
沸々と怒りの渦が腹の底から湧いてくる。
――これ以上こんな夫と一緒に居たくない!
怒りで声が震えるのを抑え、彼女は要件を伝えた。「明日、離婚届け取りに行くから。明日の夜書いておいて。証人が二人要るんだけど、澄子さんとうちの父にお願いするわ。
美凪とふたりで住む部屋が決まったらこのマンションから出ていく。それから、あなたは、今後は自分のことは自分でしてください。これからは……」
かたかたかた。
画面の世界に入り込んだ夫。なにを言っても無駄だと感じた。もう――無理だ。このひととはやっていけない。つい数時間前。澄子があんなに美凪を可愛がってくれて……こころほぐれた時間を過ごせた……あれが、嘘だったみたいだ。同じ人間とは思えない。あのひとはひとの尊厳を踏みにじるような行為は絶対しないのに、このひとといったら……。
背を向ける夫の平然たる態度。離婚を大反対されるのではないかとあれこれ気を揉んだ自分が馬鹿みたいだ。なにを考えているのだろう。好きで結婚した相手が本気の本気で悩んでいるというのに、するのがゲームか! 彼女はかっとなって、そこら辺の枕を引っ掴んで彼に向かって投げつけた。
「――馬鹿。死ね!」それは初めて。
彼女が夫に対してぶつけた本音だった。
振り返る夫は鬼の形相で、「おまえが死ね!」……
ばたんと。勢いよくドアを閉めて彼女は夫の寝室を出た。鼓動が早打ちしている。息が苦しい。もう――行き所がない、この思いも。苦しみも。あのひとと別れればきっと、解放されるだろう。この憎しみともおさらばだ。
廊下を抜けて自分の寝室へ向かう。美凪が穏やかな寝息を立てて寝ていた。この寝室で眠れる日々が、あと何回続くであろう。両親のいさかいを知らず、……パパの顔を覚えぬうちに引き離すことに罪悪を覚えぬかと問われれば答えは決まっている。だが。
あの夫とやり直すという選択肢は彼女のなかにはなかった。ただ、……
申し訳ない。
素敵な父親を見つけられなかったことに。たったひとりで、片親に育てられるという選択肢を与えてしまった娘のことが、
「……ごめんね。美凪」
最愛の娘の短い髪を撫でて、聡美は涙をひとつこぼした。
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