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「慰謝料を貰うには、婚姻を継続し難い重大な事由がないと厳しいですね。暴力を振るったとか浪費するだとか、なにか、共同生活を送るにあたって奥様の生存を脅かす言動などあれば話は別ですが。……ふぅむ。ゲームですか」と滑らかにタイピングをする弁護士。手を止めると息を吐き、「やはり、過去にゲーム依存で慰謝料が成立した事例は見当たりませんねえ……」
夫と同じ世代であろう男性のすまなさそうな顔を見ているとこちらが申し訳ない気持ちになる。夫のゲーム依存なんかで弁護士を頼るなんて。なにか小さなことで自分が大騒ぎをしているのではないかと――恥ずかしい気もする。
同時に、やるせない気持ちになる。聡美は、夫のゲーム依存に悩むあまり、離婚を決意し、澄子の紹介してくれた法律事務所に出向いている。まだゼロ歳の美凪を連れて。こうして赤子を連れてきたほうが弁護士の同情を買うのではないのかと、そうした計算も密かに働かせている。
家では特に夜中に泣く美凪は割かし外だと静かだ。他に見てくれる人間など誰も居ないゆえ、ママの病院に連れていくこともある。ファミサポにも登録しているが、見てくれる相手は小学生のお子さんがおり、習い事に通わせるのが忙しそうなゆえなかなか頼めない状況下にある。
「事情は分かりますが、ご主人は離婚に同意されているのですよね。住居も保育園もこれからお探しで四月には職場に復帰されるということでしたら、先ずは一刻も早く離婚を成立させ、お子さまとの安全で平和な生活を確保するのが最優先かと。あまりもたもたしていてご主人の気が変わられてもいけませんし……」
確かにその弁護士の言う通りで、認可保育園の申込みの締め切りが月末に迫っている。先ずは住居を確保せねば申し込むどころではなく、聡美は、弁護士の提案に同意した。そんな聡美に、
「来週、ご主人もご同席のうえで、公正証書を作成するにあたっての離婚条件をまとめますので、お二方のご都合のよろしい日をご指定頂けますでしょうか」
「えっ主人もですか」驚きも露わな彼女に対し、
「打ち合わせ時と公正証書届け時の二回にございます」と弁護士。「慰謝料や今後のお子さんとの面会回数などを決めておき、もし先方が約束を破ることがありましたら、強制執行することが可能なのです。離婚に際しては公正証書を残しておくことが絶対です。特に慰謝料に関しては、ご主人の会社に連絡をすれば給与から天引きをすることが可能ですから……」
「そうなんですか?」
「――はい。不払いを防ぐために手続きを済ませておくことを是非」
「……分かりました。主人に都合のいい日程を聞いておきます」
『離婚協議書
夫士川厚彦(以下甲という)と妻士川聡美(以下乙という)は、離婚について協議した結果、以下のとおり合意した。
記
一 甲と乙とは協議離婚をすることにし、離婚届に各自署名押印した。
二 甲と乙間の未成年の子士川美凪(以下丙という)の親権者は乙とする。
三 甲は乙に対して丙の扶養料として、平成二十五年十二月から丙が成人に達する平成四十五年五月まで、毎月五万円ずつ毎月末日限り〇〇銀行の丙名義口座に振り込んで送金する。
四 甲は乙に対して、財産分与として〇〇万円を、平成二十六年一月三十一日までに〇〇銀行の乙名義の口座に振り込んで支払うものとする。
五 甲と乙は、離婚に伴う財産上の問題は、前期四の定めによりすべて解決し、他に何も請求しないことを確認する。
六 甲は乙に対し、甲が年に二回丙と面接交渉することを容認する。面接交渉の日時、場所、方法は丙の福祉を害することのないよう配慮して、甲乙協議の上決定する。
平成二十五年十一月十四日
住所
甲 士川厚彦
住所
乙 士川聡美』
「まじでめんどくさいのな。もう懲り懲りだぜ」
まったく。
と同意するのを聡美は堪える。空を仰ぐ夫の姿を見られるのはこれが最後かもしれない。美凪は澄子に任せ、公証役場に届けに来た帰り道。弁護士と別れ、夫とふたりきり。だがふたりの道はこれ以上ないほどに隔たれている。後戻りは出来ない。が。
聡美は後悔などしていない。夫が育児に疲弊する妻を顧みず、己の欲望に走る構図は浮気と同じだ。
浮気だけが法的に罰せられ、ゲーム依存は罰せられず。
理不尽にも思える構図であるが、ひとまず聡美は生活を確保することを優先した。
法律事務所に出向きながら不動産屋を回り、住居を探す日々。幸いにして、会社から電車で一本、三十分程度のところに、二人暮らし向けの新築マンションの空きがあるということで――そこはペット飼育可能なマンションで、多少の騒音には寛容。若い夫婦や同棲中のカップルが多いという話である。大家が一階に住んでいるということで安心感もある。聡美の借りたい部屋の住民が引っ越すのが年度末ということで、内覧は出来ない。正直、すぐにでも夫と暮らすマンションから出ていきたいところではあるが、住まう場所が見つかっただけで一歩前進だ。そして。
離婚届を提出し、その後必要な手続きを調べ始めた。娘の名前に関しては裁判所に申し立てをせねば変えられないとのこと。保育園の通わせるのは四月で、日常的に美凪がフルネームを使うことなどないと思っていたら、……盲点だったのが病院への通院。時々美凪が熱を出すこともあるので、迅速なる手続きが必要。健康保険の扶養者を夫から自分に変えねばならぬゆえ、自分の会社に喜ばしくない報告をし、保険組合に電話をしたり……。気ぜわしく過ごす聡美である。勿論、離婚が成立してからは銀行、クレジットカード、保険など諸々の氏名変更手続きをせねばならない。離婚して大変なのは常に女の側だ。
そんな聡美の苦労を知らず、夫は――元夫は、離婚前と変わらぬ自由を謳歌している。離婚前後でこれだけ態度が変わらない男性は珍しいのかもしれない。一度、互いの感情をぶつけあってから、互いに無駄だと判断したのか。必要以上に口をきくことのないふたりである。
餃子のチェーン店の前を通り過ぎると、厚彦は、
「……食ってかね?」
「行かない」と聡美は首を振る。「家で澄子さん待たせてるでしょう。早く帰らないと申し訳ないわよ」
「あっそ」不服げに唇を突き出す厚彦。「じゃあ、おれひとりで食ってくから、おまえさき帰っとけ」
「……分かりました」
そして振り向きもせず、店へと入っていき、ポケットからスマホを取り出す厚彦の姿。カウンター席を選んで、料理が来るまでのあいだ、携帯をいじり倒すに違いない。
聡美の胃の底から底知れぬ怒りが湧いてくる……。迷惑をかけられたのはこっちだというのに。あのひとだけ、他人事の顔をして関知せず、のうのうと暮らして……。
「まあいい」歩きながら聡美は声に出す。「あのひとがあれだけのうのうとしていられるのも、あたしたちが家を出ていくまでよ。それからは、きっと。きっと……」結局、一緒に住んでいる間、従前どおり、厚彦のぶんの洗濯物や炊事も受け持つ聡美である。放っておくとひどいことになるから……。
ふと足が止まる。曇り空を見上げた。晴れ渡る空が見たかったのに。現実とはどこまでも自分の思うようにはいかない。
だが。
もう――悩まされることなどないのだ。あのひとと別れさえすれば。目の前に居て苛々させられるくらいなら、最初から居ないほうがまし。まし……。
と、思おうとするのに、こぼれるのは涙だった。苦しい。
悲しい……。
聡美は、あふれ出る涙を拭った。怪訝そうに見てくる周囲も目に入らない。
――捨てられたのだ、あたしは。
虚構に負けた、実体的な妻の存在。あのひとは、ゲームさえあれば、生きていける……。
選ばなかったのだ。大切な娘のことも。離婚すると親権を持たないほうの親は、普通は月一回の面会を要求するというのに、あのひとといったら……。
『年一回くらいでいいっす』
平然と言ってのける厚彦の姿に、弁護士の顔が凍り付いた。そんなクライエントなど――見たことがなかったのだろう。もういい。
「もういい……」自分はひとでなしと結婚し、そのひとの子どもを産んだ。せめて、せめて。美凪には。
自分の存在価値を信じられる、そんな人間に育って欲しい……。
「わたしだけは、信じてあげよう。大切に育て抜いていこう……」
あのひとの居ない未来を選んだ彼女は、孤独と自由を得たその寒空の下、胸にそう誓ったのであった。
*