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私たちはその場でどちらも動かない。
お互い言葉を胸に抱えていて、それを口にできないのが伝わる沈黙だった。
この場の空気に耐え切れず、私は彼を押しのけるように階段を下りようとする。
その時、レイが言った。
『指輪のことだけど』
たった一言なのに、歩き出そうとする足が止まった。
レイは少しの間を置いて、振り返った私の目を見つめる。
『あれを見たミオが、気まずいと言った意味はなんとなくわかった。
だけど、たぶんそれは……ミオが思っているようなことじゃない』
私は睨むように目を細めた。
私が思っているようなことじゃないと言われても、あの指輪は女物だし、私はレイの彼女か、忘れられない人のものだと思っている。
(……どういうこと?)
心の中で尋ねた問いには、すぐに返答があった。
『あの指輪は、恋人とか、そういった相手のものじゃない。
俺の母親のものだから』
(え……)
大きく目を開く私を、レイの蒼い瞳が見つめている。
言われた言葉を、すぐには理解できなかった。
あれはお母さんの指輪だっていうの?
予想外の発言に驚くけど、それが本当だとすれば、新しい疑問も生まれる。
(……どうしてそれを持ち歩いているの?)
内心呟いたその時、階段の下から大きな声がした。
「澪ー! ごめんちょっと手伝ってー!」
けい子さんに呼ばれ、張りつめていた空気が無理にほどかれた。
このタイミングでかと慌てるけど、私に行く以外の選択肢はない。
「は、はーい!」
大きく返事をしてレイを一瞥すれば、彼は苦笑しつつ階下を見た後、部屋に戻っていった。
後ろ髪をひかれながらも、私は階段を下りてけい子さんに駆け寄る。
「なに? どうかした?」
「あぁ、ごめんね。
鉄なべを戸棚にしまいたいんだけど、元の場所に入らなくて」
「あぁ、それならこの鍋を先にしまって……」
台所の椅子にのぼり、戸棚の中を整理する。
鍋をしまいながらも、考えるのはさっきのレイの言葉だ。
「指輪は母親のもの」という言葉を、どの程度真に受けていいかわからないけれど、それでも嘘ではない気がした。
お手伝いが終わったら、彼の部屋を訪ねてみようか。
そんな気持ちもかすかに生まれたけど、改めて顔を合わせても気まずいし、勇気が出ない。
結局、答えが知りたいのに億劫な私は、その日レイの部屋を訪れることはしなかったし、彼もそれ以上の答えを授けようとはしなかった。
翌日。朝食を食べていると、向いの席にレイがついた。
『おはよう。ケイコ、ミオ』
『おはよう、レイ。今日も早いのね』
『ええ。今日は行きたい場所がありまして』
挨拶をするけい子さんに続いて、私も小さく『おはよう』と返事をした。
レイが来てから、ほぼ変わらない毎朝の風景。
だけど目に見えなくても、私たちの関係は少しずつ変化していた。
昨日のことのようなことがあれば、レイも私を気にしているのがなんとなく伝わる。
前みたいに接することも難しいのに、かといって事情に踏み込むほど親しくもない。
カフェオレを飲み干し、席を立とうとした時、寝ぐせのついた拓海くんが台所に入ってきた。
「はよ。澪、もう行くの?」
「あ、おはよう拓海くん。
うん、もう行くよー」
眠そうに頭をかく拓海くんに答えれば、けい子さんが「そうだ」と顔をあげた。
「あぁ澪。
お昼帰ってきたら、拓海と適当に食べておいてくれる?
私は友達と約束があって、レイは夜もいらないみたいだから、お願いね」
「はーい」
「え、澪は学校昼までなの?」
拓海くんは冷蔵庫を開ける手を止め、こちらを振り返った。
「うん、来週から夏休みだから、今日から短縮授業なんだ」
「あ、それならさ!
今日学校終わったら駅で待ち合わせしよーぜ。
昼どこかで食って、そのあと図書館で勉強見てやるよ」
「えっ、本当?」
「おー、終わったら連絡して」
「ありがとう! うれしい!」
拓海くんは個別指導の先生だけあって、教えるのがとても上手だ。
……いや、その逆だ。
教えるのが上手だから、個別指導の先生が適任なんだろう。
笑顔でお礼を言い、私は足取り軽く玄関を後にした。
拓海くんに勉強を教えてもらうのは久しぶりだ。
親兄弟のいない私にとって、勉強を見てもらうのはなにげに嬉しかったりする。
(うーん、なにを教えてもらおうかなぁ)
苦手なのは数学だけど、やっぱり英語を教えてもらおう。
来年は就職だし、夏休みはTOEICの勉強をしようと思っていたから、途中本屋さんで参考書を買わなきゃ。
午前の授業を終え、教室を出る前に拓海くんにメッセージを送った。
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今終わったよ!
待ち合わせはどうしようか?
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