テラーノベル
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翌朝。
屋敷の空気は、明らかに少し変わっていた。
廊下ですれ違う使用人たちの目に、あからさまな警戒がない。
戸惑いはまだある。
でも、その奥に別のものが混じっていた。
期待だ。
昨夜の発作が、いつもより浅く終わった。
その事実が、夜のうちに静かに広がったのだろう。
リゼットは作業部屋の机に向かい、昨夜の記録を開いた。
前兆から増悪までの時間、やや延長。
紋様の拡大速度、減少。
意識混濁、なし。
鎮静後の回復、早い。
ここまでは、いい。
問題は、なぜ効いたかだ。
効いた理由が分からなければ、次はない。
偶然を再現することはできない。
リゼットは昨夜使った小瓶を光にかざした。
中身はほんの少しだけ残っている。
発作の入り口で効いた。
なら、入り口に何かある。
そこに触れられれば、もっと核へ近づける。
扉が叩かれた。
「入ってもよろしいですか」
マルタだった。
手には盆。
湯気の立つ茶と、焼き菓子が二つ。
「朝から何も召し上がっていないと聞きました」
リゼットは一瞬、目を丸くする。
「倒れられては困ります」
いつもどおり、少し厳しい言い方。
でも、その奥にあるものはもう分かる。
「ありがとうございます」
マルタは机上の記録へ目を落とした。
「旦那様は今朝、少しだけ顔色がましでした」
その一言で、胸の奥がやわらぐ。
「そうですか」
「ええ」
少し間を置いて、マルタが言う。
「……昨夜のこと、礼を申し上げます」
リゼットはすぐには返事ができなかった。
この屋敷で、自分のしたことがこうして正面から返ってくるのに、まだ慣れていない。
「ですが、喜ぶのは早いとも思っています」
「はい。私もそう思います」
マルタは小さくうなずいた。
「それで、旦那様から伝言です。必要なら納品帳と古い薬品記録も開けるようにと」
リゼットは顔を上げる。
納品帳。
そこまで触れさせるのは、屋敷の内情をかなり深く見せるということだ。
「……よろしいのですか」
「旦那様が許可なさったので」
短い答え。
でも、その重みは十分すぎるほど伝わった。
昨夜の「助かった」は、やはり一時の感情じゃなかったのだ。
午前のうちに、リゼットは屋敷の奥にある文書庫へ通された。
石壁に囲まれた薄暗い部屋。
棚には帳面や封書箱が年代ごとに並び、乾いた紙の匂いが満ちている。
「薬品関係はこちらです」
マルタが示す。
「納品記録、支払い記録、医師の意見書も一部残っています」
「ありがとうございます」
「私は外におります。必要ならお呼びください」
一人になると、部屋はいっそう静かになった。
リゼットは一番新しい納品帳から開く。
日付。
品名。
数量。
差出人。
最初の数冊は、特に不審がない。
補助薬。
鎮静剤。
消毒用酒精。
乾燥薬草。
大きな屋敷なら自然な内容だ。
でも、三年前の帳面に入ったところで手が止まった。
差出人の名が変わっている。
それ以前は、北方の薬商や王都の複数商会から散発的に届いていたものが、ある時期を境にほぼ一つの経路へまとまっていた。
王都薬房・ルクレティア監修
リゼットはその文字を指でなぞる。
聞いたことのある名だった。
王都の貴族向け調合を多く扱う、格式ある薬房。
でも違和感がある。
格式ある薬房が、なぜ辺境伯の“秘匿すべき発作”に、ここまで継続的に関わるのか。
ページをめくる。
納品開始の時期。
三年前の初夏。
その欄に、細い字で書き添えがあった。
軍務帰還後の継続処方に切り替え
リゼットの指先が止まる。
帰還後。
戦場で受けた呪いだと皆が思っている症状が、少なくとも“継続処方に切り替えられた”のは、帰還後。
戦場で始まり、帰還後に固定されたのか。
それとも――
「いたか」
背後で声がした。
振り向くと、アルヴェインが立っていた。
昼の光を背負い、いつもどおり無駄のない姿。
ただ、昨日より目の下の影が薄い。
それだけで、少し安堵する。
「文書庫まで来られるとは思いませんでした」
「自分の屋敷だ」
「そうでした」
ほんの少しだけ、彼の口元が動いた気がした。
アルヴェインは机の向かいへ来て、開かれた納品帳を見る。
「何かあったか」
「あります」
リゼットは帳面の一行を指さした。
「薬と香油の納品経路が、三年前から急に固定されています。それ以前はばらけていたのに、この時期を境に同じ薬房がほぼ専任です」
「ルクレティア、か」
その名前を見た瞬間、アルヴェインの声が少し低くなる。
「ご存じですか」
「王都の薬房だ。宮廷にも出入りしている」
やはり。
薬房。
宮廷。
王都。
線が近づいていく。
「しかも」
リゼットは帳面を示す。
「切り替えの時期に“軍務帰還後の継続処方”とあります」
アルヴェインの表情がわずかに硬くなる。
リゼットは慎重に訊いた。
「辺境伯。症状がはっきり出始めたのは、戦場ですか。それとも帰還後ですか」
沈黙が落ちる。
紙の匂いだけが、やけに濃く感じられた。
アルヴェインはしばらく答えなかった。
記憶をたぐるように視線を伏せる。
やがて低く言った。
「戦場で負った傷のあと、体調を崩すことはあった。だが……今のような発作が定着したのは、帰還してからだ」
リゼットは息を止める。
やはり。
戦場がきっかけだった可能性はある。
でも、今の形に“整えられた”のは帰還後だ。
「最初に強い発作が出た前後のこと、覚えておられますか」
「王都での叙勲のあとだ」
その言葉で、文書庫の空気が変わった気がした。
叙勲。
皆の前で功を讃えられた直後。
王都が最も彼に注目した時期。
「その少し前から、王都の医師と調合師がついた」
アルヴェインは淡々と続ける。
「戦場由来の後遺症だから慎重に診る必要があると言われた」
「そして、継続処方が始まった」
「ああ」
短い返答。
でも、その奥には鈍い怒りがあった。
自分の体のことなのに、ずっと誰かに“そういうものだ”と説明されてきたのだろう。
「辺境伯」
「何だ」
「あなたの症状は、“治らないように扱われてきた”可能性があります」
アルヴェインは否定しなかった。
驚きも、もう表には出さない。
昨夜を越えて、彼の中でも何かが変わったのだろう。
「……だろうな」
短い返事。
それが、かえって重かった。
リゼットはさらに帳面をめくる。
別冊の支払い記録で、もう一つ不自然なものを見つけた。
通常の薬品代とは別に、数か月に一度。
特別調整料
金額は小さくない。
しかも、宛先の末尾には小さな印。
監修承認 宮廷魔術管理局付
「これ……」
アルヴェインも身を乗り出す。
二人の肩が触れそうなほど距離が近づく。
その近さに一瞬だけ息が詰まるが、今はそれどころではない。
「薬房だけじゃありません」
リゼットは低く言う。
「魔術側の管理も入っています」
「宮廷魔術管理局……」
アルヴェインの声が、はっきりと冷えた。
薬と魔術の両方。
それは、リゼットが最初に感じた違和感そのものだった。
“呪いに見せかけた、薬理と術式の混成反応”。
「薬房だけでは、この整い方は作れません」
リゼットははっきり言う。
「逆に、術式だけでもここまで一定の反応にはならない。両方だからです」
「つまり、私の体は」
「利用されたんです」
言ってから、その重さに喉が乾く。
戦場から戻った功績ある辺境伯。
力があり、領地を持ち、軍にも影響がある男。
そんな存在を“完全に殺さず、完全に自由にもさせない”。
そう考えたとき、この方法はあまりにも都合がよすぎた。
弱らせる。
孤立させる。
制御しやすくする。
そして周囲には、“呪われた男”という印象だけ残す。
リゼットは唇を引き結ぶ。
悪質すぎる。
アルヴェインはしばらく帳面を見つめていた。
やがて、ぽつりと言った。
「お前の断罪は、いつからおかしかった」
突然の問いに、リゼットは顔を上げる。
「お前も、急に消されかけたんだろう」
その言い方に、胸が小さく詰まる。
“気のせいだ”でも、“考えすぎだ”でもなく。
同じ線の上にある出来事として問われることが、こんなにも救いになるとは思わなかった。
「……少し前からです」
リゼットはゆっくり答える。
「義妹の化粧水や香油の調合を、私が見ていた時期がありました。薬草の配合や保存法も、家では私の役目だったので」
アルヴェインは黙って聞いている。
「でも、あるころから私の手を離れたものが増えました」
リゼットは続ける。
「知らない薬材、知らない納入先、知らない香り。訊いても、女の身だしなみに口を出すなと父に言われて」
「その後、断罪か」
「はい」
声にすると、点が線になる。
胸の奥に沈んでいた違和感が、ようやく説明できる形になっていく。
「私は、見てはいけないものに気づきかけていたのかもしれません」
「だから切られた」
その言葉は静かだった。
でも静かすぎて、かえって鋭い。
切られた。
婚約も。
家での居場所も。
信用も。
全部。
「辺境伯も」
「ああ」
アルヴェインは短く答える。
「私は、強すぎて都合が悪かったんだろう」
痛みも怒りも、すでに飲み込んだあとの声だった。
リゼットはその横顔を見つめる。
戦場で生き残り。
辺境を守り。
それでも王都では“扱いにくい存在”として削られてきた人。
一方、自分は家の片隅で知識を使い、
それが誰かの飾りでは済まなくなった瞬間に切り捨てられた。
立場は違う。
でも、構図は同じだ。
「私たち」
リゼットは小さく言う。
「“都合が悪いから消される側”だったんですね」
口にすると、奇妙なほどしっくり来た。
悲しいのに、少しだけすっきりもする。
曖昧だった輪郭に、名前がついたからだ。
アルヴェインはしばらく何も言わなかった。
やがてほんの少しだけ口元を緩める。
笑ったわけじゃない。
でも、その沈黙は否定ではなかった。
「そういうことだろうな」
その瞬間。
文書庫の冷たい空気の中で、二人のあいだにあるものが少し変わった気がした。
助ける者と、助けられる者。
診る者と、診られる者。
それだけじゃない。
同じ側へ押しやられた者同士の、静かな連帯。
リゼットは納品帳を閉じ、別紙へ要点を書き写す。
三年前初夏より納入経路固定。
王都薬房・ルクレティア監修。
特別調整料あり。
宮廷魔術管理局付の承認印あり。
症状の定着は帰還後、叙勲後。
書けば書くほど、仮説は強くなる。
まだ黒幕の名は見えない。
でも場所は見えてきた。
王都。
薬房。
魔術管理局。
そして、家。
「リゼット」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
アルヴェインは机に片手をついたまま、静かに言った。
「もう引き返せないぞ」
脅しじゃない。
確認だ。
ここから先は、ただ症状を診るだけでは済まない。
王都の深い部分を掘ることになる。
相手は、個人の悪意だけじゃないかもしれない。
それでも。
「最初から、そのつもりです」
答えに迷いはなかった。
アルヴェインは数秒だけこちらを見て、やがて小さくうなずく。
「なら、一緒に辿るぞ」
一緒に。
その言葉が胸に落ちる。
一人で証明しなくていい。
一人で抱え込まなくていい。
それだけで、体の奥に静かな力が満ちていく。
文書庫の小窓から差し込む冬の日差しは弱い。
でも、その薄い光の中で、リゼットははっきりと思った。
もう自分は、ただ断罪の続きを生きているだけじゃない。
ここから先は、奪われたものを取り返すための時間だ。