テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
150
王都から正式な使者が来たのは、その二日後だった。
雪の止み間の午前。
灰色の空の下、王家の紋章をつけた馬車が辺境伯邸の門前に止まる。
いつもの伝令とは違う。
門を抜けてくる足音だけで、屋敷の空気が変わるのが分かった。
作業部屋にいたリゼットは、紙の上で指を止める。
嫌な予感。
そう呼ぶには、輪郭がありすぎた。
「リゼット様」
マルタの声は低い。
「来ましたか」
「はい。旦那様が応接室へ」
それだけで十分だった。
リゼットは記録用紙を重ね、箱を机の奥へ戻す。
香油。
手紙。
花片。
納品帳から写した記録。
まだ決定打ではない。
でも、ここまで積み上げたものを無駄にはできない。
応接室へ向かう廊下が、やけに長く感じた。
王都。
その言葉だけで、胸の奥に冷たいものが広がる。
あの断罪の夜の空気。
見下ろす視線。
誰も信じない広間。
足を止めたくなる記憶は、今も消えていない。
けれど、扉の前に立ったとき、前とは違うと分かった。
今の自分は、あの夜のままじゃない。
扉を開ける。
王家の使者が一人、背筋を伸ばして立っていた。
四十代ほどの男。
穏やかな目元。
でも、その穏やかさは職務の仮面だ。
「失礼いたします。アーヴェル令嬢――いえ、リゼット様」
呼び方を一瞬迷った。
それだけで、こちらの立場が向こうにとっても単純ではないと分かる。
アルヴェインは窓際に立ち、使者を正面から見ていた。
その姿勢だけで、この部屋の主導権が誰にあるかがはっきりする。
「王都より、正式な召喚状をお持ちしました」
机の上に置かれた封書には、王家の封蝋。
リゼットはそれを見つめる。
もう逃げ場はない、と告げるような赤だった。
「理由は」
アルヴェインが訊く。
「先日の断罪未遂事案について、再審のための予備審問が設けられます」
使者は淀みなく答える。
「関係者の証言と状況確認のため、リゼット様の出頭を求めるとのことです」
再審。
言葉だけ聞けば、公正にも見える。
でも、リゼットは知っている。
王都では、形式が整っていることと、公正であることは別だ。
「予備審問を求めたのは、誰ですか」
リゼットが訊くと、使者は一瞬だけ間を置いた。
「第二王子殿下のお名前があります。あわせて、宮廷側の確認要請も」
宮廷側。
ぼかした言い方。
でも、そのぼかし方自体が答えに近い。
薬房。
魔術管理局。
家。
いま掴みかけている線の中心が、向こうから手を伸ばしてきたのだ。
「なお、辺境伯アルヴェイン様にも同席要請が出ております」
「要請か」
アルヴェインの声音は淡い。
「はい」
「命令ではないなら、こちらが選べるな」
使者の眉がわずかに動く。
「……王都としては、ご協力いただければと」
「協力するかどうかは、内容次第だ」
静かなのに、空気が張る。
使者はそれ以上押さず、一礼した。
「明後日の夕刻までに王都着が望ましいとのことです。返答は本日中に」
使者が下がる。
扉の閉まる音が、やけに重く響いた。
しばらく誰も口を開かなかった。
マルタが茶を置き、静かに退室する。
二人きりになっても、沈黙はすぐには解けない。
リゼットは召喚状を見つめたまま、ようやく息を吐いた。
「ずいぶん早いですね」
「あちらも気づいたんだろう」
アルヴェインが答える。
「私たちが、何か掴み始めていると」
「ああ」
簡潔な返答。
でも、それ以上の説明は要らなかった。
呼ばれたのではない。
動かされたのだ。
こちらが準備を整え切る前に、王都の盤面へ引き戻したい。
向こうの意図は、それで十分読める。
リゼットは召喚状を手に取る。
紙は上質で、文言は丁寧だった。
でも行間には焦りがある。
正式。
確認。
公正。
再審。
そういう言葉で外側を整えながら、内実は違う。
「……戻るしかありませんね」
声に出した瞬間、胸が少しだけ痛んだ。
戻りたいわけじゃない。
あの場所に、もう一度立ちたいわけじゃない。
王城の石床。
嘲りを隠した目。
婚約破棄の声。
義妹の涙。
記憶は薄れていない。
今も触れれば痛む。
アルヴェインが机の向こうからこちらを見る。
「怖いか」
その問いは、あまりにもまっすぐだった。
慰めでもない。
試しでもない。
ただ確認するための声。
だから、取り繕う気になれなかった。
「はい」
少しの沈黙。
「怖いです」
リゼットは静かに続ける。
「あの場所へ戻るのも、また都合よく話を作られるのも。今度こそ潰されるかもしれないと思うのも」
アルヴェインは黙って聞いている。
「でも」
そこで言葉が止まる。
でも、の先はもう決まっていた。
「このまま辺境にいても、終わらないとも思っています」
断罪はまだ生きている。
彼の症状も、王都の手も、まだこちらに届く。
逃げ切るだけなら、ここで身を潜めることもできるかもしれない。
でも、それでは奪われたものは戻らない。
真相も掴めない。
「そうだな」
アルヴェインの一言が、妙に心を落ち着かせた。
現実として同意されることは、ときに優しい言葉より強い。
「決め手が足りません」
「ああ」
「納品帳も香油も、線としては強いです。でも、公の場でひっくり返すにはまだ弱い」
「だから王都へ行く必要がある」
「はい」
宮廷側の記録。
断罪当夜の証言の崩れ。
薬房と魔術管理局をつなぐ何か。
それを掴むには、向こうへ戻るしかない。
怖い。
でも必要だ。
必要だと理解しているからこそ、逃げられない。
アルヴェインは召喚状を手に取り、ざっと読み直すと机へ戻した。
「一つだけ違う」
「……何がですか」
「お前が一人で戻るわけじゃない」
その言葉に、リゼットはゆっくり顔を上げる。
アルヴェインはいつものように真っ直ぐ立ったまま、でも前より少し近い声で言った。
「前回は、お前一人が切られた。だが今回は違う」
リゼットは何も言えなかった。
一人ではない。
その事実が、こんなにも息をしやすくするとは思わなかった。
「……辺境伯は、行かれるのですね」
「行く」
迷いのない即答だった。
「予備審問だろうが何だろうが、こちらの場でもある。向こうの都合だけで終わらせる気はない」
その声には熱があった。
怒りを押し殺した熱。
でも同時に、隣に立つと決めた人の声でもあった。
リゼットは指先をそっと握る。
この人はもう、自分を匿っているだけじゃない。
保護でも、情けでもない。
共に立つと決めている。
そのことが、胸の奥で静かに灯る。
「ありがとうございます」
「礼は早い」
「それでも、言いたかったんです」
アルヴェインは少しだけ目を細めた。
それ以上は何も言わなかったが、その沈黙はもう拒絶の形をしていない。
夕方までに、屋敷は王都行きの準備で静かに動き始めた。
馬車の点検。
宿泊用の手配。
護衛の選定。
必要書類の取りまとめ。
マルタは忙しく立ち回りながらも、作業部屋に立ち寄ると厚手の外套を差し出した。
「王都は、こちらとは違う意味で冷えます」
その言い方に、リゼットは小さく笑う。
「はい」
「向こうでは、気を抜かないでください」
「もちろんです」
マルタは少しためらってから続けた。
「……ですが、必要以上に一人で背負わないでください。旦那様も、今回ばかりは最初からそのつもりですから」
リゼットは目を瞬く。
屋敷の誰より長くアルヴェインを見てきた人がそう言うのなら、それはきっと本当なのだろう。
「マルタさん」
「何でしょう」
「戻ってきたら、今度はちゃんと結果を持ち帰ります」
マルタは一瞬だけ、いつもの侍女長の顔をほどいた。
「お待ちしています」
その言葉が、思った以上に温かかった。
夜。
出発前の最後の記録整理をしていると、作業部屋の扉が静かに開いた。
アルヴェインだった。
昼間の軍装ではなく、少し軽い室内着。
それだけで、距離が少し近く感じる。
「まだ起きていたのか」
「辺境伯こそ」
「同じことだな」
少しだけ、口元がゆるむ。
最近、ほんのわずかだが、この人がこういう顔を見せることが増えた。
リゼットは机上の紙をまとめる。
「持っていくものを整理していました。納品記録の写し、香油の比較記録、発作時刻の一覧、手紙の保管記録」
アルヴェインは一つ一つへ目を落とす。
「十分か」
「十分ではありません。でも、持てるだけは持ちます」
「そうだな」
彼は机に片手をつき、少しだけ身を屈める。
自然と距離が近づく。
リゼットの指先が、紙の端で止まった。
「明日から、向こうでは何を言われてもおかしくない」
「はい」
「お前が怯むのは構わない」
思わず顔を上げる。
怯むのは構わない。
強くあれ、と言うのではなく。
「だが、黙るな」
その一言が深く落ちた。
「お前が見たものを、お前の言葉で言え。証拠は私が通す」
息が詰まるほど、まっすぐだった。
それは励ましであると同時に、役割の分担でもある。
見たものを言葉にするのは自分。
それを通すために前へ立つのは彼。
二人で行く意味が、その言葉だけで形になった。
「……はい」
声が少し掠れる。
アルヴェインはそれを気にした様子もなく、ただ静かにこちらを見ていた。
「辺境伯」
「何だ」
「もし、向こうでまた私が……」
言いかけて止まる。
また切り捨てられたら。
また、ひとつの言葉で全部を奪われそうになったら。
続きを飲み込む前に、アルヴェインが答えた。
「今度は、私がいる」
たったそれだけだった。
でも、これ以上ないほど十分だった。
胸の奥の、怖さが消えるわけじゃない。
でも、怖さの隣に立てるものができる。
それだけで、人は前へ進める。
リゼットは小さく頷く。
「なら、ちゃんと戻ってきます」
「最初からそのつもりでいろ」
低い声。
でも、その響きは前よりずっとやわらかい。
窓の外では、夜の雪が薄く光っていた。
王都への道は遠くない。
時間も、もうない。
でも不思議と、以前のような絶望はなかった。
怖さはある。
緊張もある。
それでも、あの夜のように、ただ切られる側では終わらない。
今の自分には机がある。
記録がある。
信じてくれる目がある。
そして何より、共に立つと言った人がいる。
リゼットは机上の箱に手を置いた。
香りの残る手紙。
花片。
記録の写し。
全部が、奪われた夜を取り返すための足場だ。
明日、王都へ戻る。
逃げるためではなく、終わらせるために。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!