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王都から正式な使者が来たのは、その二日後だった。
雪の止み間の午前。
灰色の空の下、王家の紋章をつけた馬車が辺境伯邸の門前に止まる。
いつもの伝令とは違う。
門を抜けてくる足音だけで、屋敷の空気が変わるのが分かった。
作業部屋にいたリゼットは、紙の上で指を止める。
嫌な予感。
そう呼ぶには、輪郭がありすぎた。
「リゼット様」
マルタの声は低い。
「来ましたか」
「はい。旦那様が応接室へ」
それだけで十分だった。
リゼットは記録用紙を重ね、箱を机の奥へ戻す。
香油。
手紙。
花片。
納品帳から写した記録。
まだ決定打ではない。
でも、ここまで積み上げたものを無駄にはできない。
応接室へ向かう廊下が、やけに長く感じた。
王都。
その言葉だけで、胸の奥に冷たいものが広がる。
あの断罪の夜の空気。
見下ろす視線。
誰も信じない広間。
足を止めたくなる記憶は、今も消えていない。
けれど、扉の前に立ったとき、前とは違うと分かった。
今の自分は、あの夜のままじゃない。
扉を開ける。
王家の使者が一人、背筋を伸ばして立っていた。
四十代ほどの男。
穏やかな目元。
でも、その穏やかさは職務の仮面だ。
「失礼いたします。アーヴェル令嬢――いえ、リゼット様」
呼び方を一瞬迷った。
それだけで、こちらの立場が向こうにとっても単純ではないと分かる。
アルヴェインは窓際に立ち、使者を正面から見ていた。
その姿勢だけで、この部屋の主導権が誰にあるかがはっきりする。
「王都より、正式な召喚状をお持ちしました」
机の上に置かれた封書には、王家の封蝋。
リゼットはそれを見つめる。
もう逃げ場はない、と告げるような赤だった。
「理由は」
アルヴェインが訊く。
「先日の断罪未遂事案について、再審のための予備審問が設けられます」
使者は淀みなく答える。
「関係者の証言と状況確認のため、リゼット様の出頭を求めるとのことです」
再審。
言葉だけ聞けば、公正にも見える。
でも、リゼットは知っている。
王都では、形式が整っていることと、公正であることは別だ。
「予備審問を求めたのは、誰ですか」
リゼットが訊くと、使者は一瞬だけ間を置いた。
「第二王子殿下のお名前があります。あわせて、宮廷側の確認要請も」
宮廷側。
ぼかした言い方。
でも、そのぼかし方自体が答えに近い。
薬房。
魔術管理局。
家。
いま掴みかけている線の中心が、向こうから手を伸ばしてきたのだ。
「なお、辺境伯アルヴェイン様にも同席要請が出ております」
「要請か」
アルヴェインの声音は淡い。
「はい」
「命令ではないなら、こちらが選べるな」
使者の眉がわずかに動く。
「……王都としては、ご協力いただければと」
「協力するかどうかは、内容次第だ」
静かなのに、空気が張る。
使者はそれ以上押さず、一礼した。
「明後日の夕刻までに王都着が望ましいとのことです。返答は本日中に」
使者が下がる。
扉の閉まる音が、やけに重く響いた。
しばらく誰も口を開かなかった。
マルタが茶を置き、静かに退室する。
二人きりになっても、沈黙はすぐには解けない。
リゼットは召喚状を見つめたまま、ようやく息を吐いた。
「ずいぶん早いですね」
「あちらも気づいたんだろう」
アルヴェインが答える。
「私たちが、何か掴み始めていると」
「ああ」
簡潔な返答。
でも、それ以上の説明は要らなかった。
呼ばれたのではない。
動かされたのだ。
こちらが準備を整え切る前に、王都の盤面へ引き戻したい。
向こうの意図は、それで十分読める。
リゼットは召喚状を手に取る。
紙は上質で、文言は丁寧だった。
でも行間には焦りがある。
正式。
確認。
公正。
再審。
そういう言葉で外側を整えながら、内実は違う。
「……戻るしかありませんね」
声に出した瞬間、胸が少しだけ痛んだ。
戻りたいわけじゃない。
あの場所に、もう一度立ちたいわけじゃない。
王城の石床。
嘲りを隠した目。
婚約破棄の声。
義妹の涙。
記憶は薄れていない。
今も触れれば痛む。
アルヴェインが机の向こうからこちらを見る。
「怖いか」
その問いは、あまりにもまっすぐだった。
慰めでもない。
試しでもない。
ただ確認するための声。
だから、取り繕う気になれなかった。
「はい」
少しの沈黙。
「怖いです」
リゼットは静かに続ける。
「あの場所へ戻るのも、また都合よく話を作られるのも。今度こそ潰されるかもしれないと思うのも」
アルヴェインは黙って聞いている。
「でも」
そこで言葉が止まる。
でも、の先はもう決まっていた。
「このまま辺境にいても、終わらないとも思っています」
断罪はまだ生きている。
彼の症状も、王都の手も、まだこちらに届く。
逃げ切るだけなら、ここで身を潜めることもできるかもしれない。
でも、それでは奪われたものは戻らない。
真相も掴めない。
「そうだな」
アルヴェインの一言が、妙に心を落ち着かせた。
現実として同意されることは、ときに優しい言葉より強い。
「決め手が足りません」
「ああ」
「納品帳も香油も、線としては強いです。でも、公の場でひっくり返すにはまだ弱い」
「だから王都へ行く必要がある」
「はい」
宮廷側の記録。
断罪当夜の証言の崩れ。
薬房と魔術管理局をつなぐ何か。
それを掴むには、向こうへ戻るしかない。
怖い。
でも必要だ。
必要だと理解しているからこそ、逃げられない。
アルヴェインは召喚状を手に取り、ざっと読み直すと机へ戻した。
「一つだけ違う」
「……何がですか」
「お前が一人で戻るわけじゃない」
その言葉に、リゼットはゆっくり顔を上げる。
アルヴェインはいつものように真っ直ぐ立ったまま、でも前より少し近い声で言った。
「前回は、お前一人が切られた。だが今回は違う」
リゼットは何も言えなかった。
一人ではない。
その事実が、こんなにも息をしやすくするとは思わなかった。
「……辺境伯は、行かれるのですね」
「行く」
迷いのない即答だった。
「予備審問だろうが何だろうが、こちらの場でもある。向こうの都合だけで終わらせる気はない」
その声には熱があった。
怒りを押し殺した熱。
でも同時に、隣に立つと決めた人の声でもあった。
リゼットは指先をそっと握る。
この人はもう、自分を匿っているだけじゃない。
保護でも、情けでもない。
共に立つと決めている。
そのことが、胸の奥で静かに灯る。
「ありがとうございます」
「礼は早い」
「それでも、言いたかったんです」
アルヴェインは少しだけ目を細めた。
それ以上は何も言わなかったが、その沈黙はもう拒絶の形をしていない。
夕方までに、屋敷は王都行きの準備で静かに動き始めた。
馬車の点検。
宿泊用の手配。
護衛の選定。
必要書類の取りまとめ。
マルタは忙しく立ち回りながらも、作業部屋に立ち寄ると厚手の外套を差し出した。
「王都は、こちらとは違う意味で冷えます」
その言い方に、リゼットは小さく笑う。
「はい」
「向こうでは、気を抜かないでください」
「もちろんです」
マルタは少しためらってから続けた。
「……ですが、必要以上に一人で背負わないでください。旦那様も、今回ばかりは最初からそのつもりですから」
リゼットは目を瞬く。
屋敷の誰より長くアルヴェインを見てきた人がそう言うのなら、それはきっと本当なのだろう。
「マルタさん」
「何でしょう」
「戻ってきたら、今度はちゃんと結果を持ち帰ります」
マルタは一瞬だけ、いつもの侍女長の顔をほどいた。
「お待ちしています」
その言葉が、思った以上に温かかった。
夜。
出発前の最後の記録整理をしていると、作業部屋の扉が静かに開いた。
アルヴェインだった。
昼間の軍装ではなく、少し軽い室内着。
それだけで、距離が少し近く感じる。
「まだ起きていたのか」
「辺境伯こそ」
「同じことだな」
少しだけ、口元がゆるむ。
最近、ほんのわずかだが、この人がこういう顔を見せることが増えた。
リゼットは机上の紙をまとめる。
「持っていくものを整理していました。納品記録の写し、香油の比較記録、発作時刻の一覧、手紙の保管記録」
アルヴェインは一つ一つへ目を落とす。
「十分か」
「十分ではありません。でも、持てるだけは持ちます」
「そうだな」
彼は机に片手をつき、少しだけ身を屈める。
自然と距離が近づく。
リゼットの指先が、紙の端で止まった。
「明日から、向こうでは何を言われてもおかしくない」
「はい」
「お前が怯むのは構わない」
思わず顔を上げる。
怯むのは構わない。
強くあれ、と言うのではなく。
「だが、黙るな」
その一言が深く落ちた。
「お前が見たものを、お前の言葉で言え。証拠は私が通す」
息が詰まるほど、まっすぐだった。
それは励ましであると同時に、役割の分担でもある。
見たものを言葉にするのは自分。
それを通すために前へ立つのは彼。
二人で行く意味が、その言葉だけで形になった。
「……はい」
声が少し掠れる。
アルヴェインはそれを気にした様子もなく、ただ静かにこちらを見ていた。
「辺境伯」
「何だ」
「もし、向こうでまた私が……」
言いかけて止まる。
また切り捨てられたら。
また、ひとつの言葉で全部を奪われそうになったら。
続きを飲み込む前に、アルヴェインが答えた。
「今度は、私がいる」
たったそれだけだった。
でも、これ以上ないほど十分だった。
胸の奥の、怖さが消えるわけじゃない。
でも、怖さの隣に立てるものができる。
それだけで、人は前へ進める。
リゼットは小さく頷く。
「なら、ちゃんと戻ってきます」
「最初からそのつもりでいろ」
低い声。
でも、その響きは前よりずっとやわらかい。
窓の外では、夜の雪が薄く光っていた。
王都への道は遠くない。
時間も、もうない。
でも不思議と、以前のような絶望はなかった。
怖さはある。
緊張もある。
それでも、あの夜のように、ただ切られる側では終わらない。
今の自分には机がある。
記録がある。
信じてくれる目がある。
そして何より、共に立つと言った人がいる。
リゼットは机上の箱に手を置いた。
香りの残る手紙。
花片。
記録の写し。
全部が、奪われた夜を取り返すための足場だ。
明日、王都へ戻る。
逃げるためではなく、終わらせるために。