テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#日常組
tagu2026226
801
24
第7話 その指に、もう一度
ルカが距離を置くようになってから、三日が経った。
リンデンにとって、それはひどく長い三日間だった。
「殿下、本日の会議資料でございます」
「ああ」
「午後の来客については、予定どおり応接室へご案内いたします」
「……分かった」
ルカは必要な報告を済ませると、一礼してすぐに離れていく。
以前なら、報告のあとに少しだけ雑談をしたり、リンデンが差し出した菓子に困ったような顔をしたりしていた。
今は、それすらない。
まるで、皇太子と側近という関係だけを残し、それ以外のすべてを切り離そうとしているかのようだった。
「ルカ」
「はい、殿下」
「こちらへ来い」
呼び止めると、ルカはおとなしく近づいてきた。
しかし、リンデンが手を伸ばそうとした瞬間、ほんのわずかに身を引く。
その小さな動きが、リンデンの胸を締めつけた。
「……私を避けているのか」
「そのようなことはございません」
「ならば、なぜ目を合わせない」
「申し訳ございません。今後は気をつけます」
また、それだ。
謝罪と、丁寧すぎる返事。
リンデンが欲しいのは、そんなものではない。
理由を聞きたい。
何があったのか知りたい。
そして、以前のように自分の前で笑ってほしい。
けれど、ルカは何も話してくれなかった。
「……もういい。仕事に戻れ」
「かしこまりました」
ルカは深く頭を下げ、執務室を出ていった。
閉じられた扉を見つめながら、リンデンは小さく息を吐く。
「……いったい、どうすればいい」
誰よりも近くにいてほしい相手が、手を伸ばせば届く距離にいるのに、ひどく遠い。
その事実が、思っていた以上に苦しかった。
◇
一方、ルカもまた、平気なふりをすることに疲れ始めていた。
リンデンが名前を呼んでくれるたび、胸が跳ねる。
優しい言葉をかけられるたび、以前のように笑いかけたくなる。
それでも、思い出すのはあの日のことだった。
床に膝をつき、指輪を探していた自分。
心配してくれたリンデンの声。
そして、思わず肩を震わせてしまった、あの大きな声。
――指輪は後で探すと言っているだろう!
リンデンが自分を心配してくれていたことは、分かっている。
自分の身体を大切にしろと言ってくれたことも。
それなのに、あのときのルカには、指輪を失くしたことでリンデンに迷惑をかけてしまったという思いしか残らなかった。
「……もう、甘えちゃだめなんだ」
ルカは誰もいない部屋で、左手を見つめた。
指輪があった場所には、何もない。
指先でそっと薬指をなぞる。
あの指輪を贈られた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
自分のために選んでくれたこと。
喜べばそれでいいと言ってくれたこと。
嬉しくて、何度も眺めたこと。
失くしてしまったことが悲しいのは、指輪そのものが大切だからだけではない。
あの贈り物に込められた優しさまで、自分の手からこぼれ落ちてしまったような気がするからだ。
「……殿下」
小さく名前を呼んでも、返事はない。
本当は、もう一度だけでいいから、あの優しい声で名前を呼んでほしかった。
けれど、その願いを口にすることはできなかった。
◇
その日の夕刻。
「殿下、少しよろしいでしょうか」
執務室を訪れたのは、リンデンに長年仕える侍従だった。
「どうした」
「先日、セレスティア様がお使いになっていた部屋を片づけておりましたところ、家具の隙間からこちらが見つかりまして」
差し出された小さな布の上に、銀色の指輪が載っていた。
繊細な金細工。
淡い青色の宝石。
見間違えるはずがなかった。
「……これは」
「ルカ様がお探しになっていたものではないかと」
リンデンは指輪を手に取った。
指先に伝わる、冷たい金属の感触。
ルカが床に膝をついてまで探していたもの。
自分が怒鳴ったあとも、涙を浮かべながら手を伸ばしていたもの。
その姿が、脳裏によみがえる。
「……そうか」
リンデンは指輪を握りしめた。
見つかった。
ようやく、見つかった。
けれど、喜びより先に胸を満たしたのは、後悔だった。
あの日、自分はルカを立たせることばかり考えていた。
傷ついた姿を見て、心配でたまらなかった。
それなのに、ルカが何よりも大切にしていたものを、後回しにしてしまった。
そして、あの声で彼を怯えさせた。
「……ルカを呼んでくれ」
「かしこまりました」
「いや、待て」
リンデンは一度、言葉を切った。
「私が直接呼びに行く」
そう言って立ち上がると、指輪を大切に包み、執務室を出た。
◇
「殿下がお呼びです」
突然告げられ、ルカは目を見開いた。
「……僕を、ですか?」
「はい。執務室でお待ちです」
また何か失敗をしてしまったのだろうか。
そう考えると、胸が不安でいっぱいになった。
ルカは服の皺を整え、静かに執務室へ向かった。
扉の前で一度息を整え、ノックをする。
「失礼いたします。ルカ・エースです」
「入れ」
聞き慣れた声に、胸が小さく跳ねた。
扉を開けると、リンデンが窓際に立っていた。
「……お呼びでしょうか、殿下」
「ああ。そこに座ってくれ」
「いえ、私はこのままで……」
「ルカ」
名前を呼ばれ、ルカは口を閉ざした。
「頼む。座ってほしい」
いつもとは違う声だった。
命令というより、懇願に近い響き。
ルカは戸惑いながらも、椅子に腰を下ろした。
リンデンは向かい側に座らず、ルカの前に立ったまま、しばらく彼を見つめていた。
「……殿下?」
「先に、謝らせてほしい」
「え……?」
思いがけない言葉に、ルカは顔を上げた。
「この前は、怒鳴ってすまなかった」
「そ、そんな……殿下が謝られることではございません」
「いや。私が悪かった」
リンデンは静かに続けた。
「お前が傷ついているのを見て、心配で仕方がなかった。早く立たせて、傷を確かめたかった。……だが、そのせいで、お前が大切にしていたものを軽く扱うような言い方をしてしまった」
ルカの瞳が揺れた。
「指輪が見つからなくて、どれほど不安だったのか。私は、ちゃんと考えられていなかった」
「……殿下」
「すまなかった」
リンデンは、深く頭を下げた。
皇太子である彼が、側近である自分に。
ルカには、それが信じられなかった。
「や、やめてください……! 殿下が頭を下げる必要なんて……!」
「ある。お前を傷つけたのは、私だからな」
ルカは何も言えなかった。
胸の奥に押し込めていた感情が、ゆっくりとほどけていく。
けれど、まだ怖かった。
また優しくされたら、きっと期待してしまう。
また、そばにいたいと思ってしまう。
「……僕が、悪いんです」
ルカは小さく呟いた。
「指輪を失くしてしまって……殿下に心配をかけて……」
「違う」
「でも……!」
声が震えた。
「僕は、殿下にいただいたものを守れませんでした。殿下の優しさに甘えてばかりで……これ以上、迷惑をかけたくないんです」
リンデンの表情が変わった。
「……迷惑?」
「僕は、殿下の側近です。きちんとお仕えしなければならないのに、特別に扱っていただくことばかり喜んでしまって……」
ルカはぎゅっと手を握りしめた。
「僕には、殿下の隣にいる資格なんて……」
「ルカ」
静かな声が、彼の言葉を遮った。
リンデンは、まっすぐルカを見つめていた。
「誰が、お前にそんなことを思わせた?」
ルカは息をのんだ。
「……それは」
「私が、お前を迷惑だと思ったことなど一度もない」
はっきりとした言葉だった。
「お前が私のそばにいることを、望んでいる。お前が笑ってくれると嬉しい。お前が傷つけば、心配でたまらなくなる」
リンデンは一歩、近づいた。
「だからこそ、あの日のお前を見ていられなかった。だが、心配だからといって、傷つけていい理由にはならない。……本当にすまなかった」
ルカの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……でも、セレスティア様が」
ようやく、言葉が出た。
「僕に、身の程をわきまえるようにと……殿下のお優しさに甘えてはいけないと。指輪も、僕には分不相応だと……」
リンデンの目が、鋭く細められた。
「セレスティアが?」
ルカはびくりと肩を震わせた。
「……申し訳ございません。お話しするつもりは……」
「謝らなくていい」
リンデンは、すぐに声を和らげた。
「もう、お前がひとりで抱え込む必要はない」
そして、彼は手元の布を開いた。
そこには、見覚えのある指輪があった。
「……あっ」
ルカの瞳が大きく見開かれる。
「指輪……!」
「ああ。見つかった」
リンデンは指輪をそっと手のひらに載せた。
「お前が大切にしていたものだ。もう一度、お前に渡したい」
「……本当に、見つかったんですか?」
「嘘をついてどうする」
いつものような、少しだけぶっきらぼうな言い方。
けれど、その声は優しかった。
ルカは震える手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「……僕が、受け取ってもいいんですか?」
リンデンは目を伏せ、それから静かに答えた。
「もちろんだ」
そして、ルカの前に膝をついた。
「……殿下!?」
驚くルカの左手を、リンデンはそっと取った。
その手は、逃げようと思えばいつでも逃げられるほど優しく握られていた。
「もう一度、はめてもいいか」
ルカは声を出せなかった。
ただ、小さく頷いた。
リンデンは指輪を取り、ルカの左手の薬指へ、ゆっくりと滑らせた。
銀色の指輪が、元の場所に戻る。
淡い青色の宝石が光を受けて輝いた。
まるで、何も失われていなかったかのように。
けれど、ルカの目からは次々と涙がこぼれていた。
「……よかった」
小さな声が漏れる。
「本当に……よかった……」
リンデンは立ち上がり、涙を拭おうとするルカの手を取った。
「ルカ」
「……はい」
「私は、お前にここを離れてほしくない」
ルカの呼吸が止まった。
「お前が何を言われたとしても、誰に何をされたとしても、私の気持ちは変わらない」
リンデンは、指輪の輝く左手をそっと持ち上げた。
「お前は、私の大切な側近だ」
そこで一度、言葉を切る。
そして、今まで誰にも見せたことのないような、真剣な眼差しでルカを見つめた。
「……それだけでは、足りないくらいに」
「殿下……?」
ルカには、その言葉の意味が分からなかった。
分からないのに、胸が苦しいほど熱くなる。
リンデンはルカの左手を持ったまま、そっと身をかがめた。
そして――。
指輪の輝く、ルカの薬指に。
静かに、口づけを落とした。
「……っ!」
ルカは息をのんだ。
銀色の指輪と、触れた唇の温もり。
目の前には、いつも冷静なはずの皇太子がいる。
けれど今の彼は、まるで何かを伝えようとしているかのように、ルカだけを見つめていた。
「殿下……これは……」
震える声で問いかけても、リンデンはすぐには答えなかった。
ただ、ルカの手を離さずに、もう一度その名を呼ぶ。
「ルカ」
その声は、今まで聞いたどんな声よりも優しかった。
「お前は、まだ分かっていないのだな」
リンデンの青い瞳が、まっすぐにルカを射抜く。
「私がお前を、どれほど――」
その先の言葉を、ルカはまだ知らない。
けれど、薬指に残る温もりだけは、確かにそこにあった。
コメント
2件

あー、大好き。 もう寝れん⭐︎ 眠りたく無いぃ
いやもう、指輪をはめ直すシーンが良すぎてやられたわ…。リンデンが膝ついて、ルカの薬指に口づけるところ、まじで心臓止まるかと思った。側近と皇太子の距離感と、それを超えたい想いが丁寧に描かれてて、感情の機微がすごく伝わってきた。ルカが「甘えちゃだめ」って自分を責めるところも切なくて。ああいうすれ違い、あるよね…。指に残る温もりの描写、最高でした🙏