テラーノベル
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第8話「初めての口づけ」
「お前は、まだ分かっていないのだな。私がお前を、どれほど――」
リンデンの言葉は、そこで途切れた。
目の前には、驚いたように瞳を揺らすルカがいる。
左手の薬指には、先ほど戻してもらった銀色の指輪。淡い青色の宝石が、窓から差し込む光を受けて小さく輝いていた。
「……殿下?」
続きを促すようなルカの声に、リンデンは一度だけ目を伏せた。
今、すべてを伝えてしまえば。
自分の中にある、この感情の名前まで明かしてしまいそうだった。
「いや。今はまだ、いい」
「そう、ですか……」
ルカは少しだけ残念そうにしながらも、それ以上は尋ねなかった。
その様子を見て、リンデンは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
本当は、伝えたい。
お前が大切だと。
誰よりもそばにいてほしいと。
もう二度と、ひとりで傷ついてほしくないと。
けれど、言葉にするには、まだ知らなければならないことがある気がした。
ルカが何を恐れ、何を諦めて生きてきたのか。
そして、自分の与える愛情が、彼にとって本当に幸せなものなのか。
「ルカ」
「はい」
「……少し、話をしないか」
リンデンは、彼の手をそっと握った。
「お前のことを、もっと知りたい」
その言葉に、ルカは目を見開いた。
自分のことを知りたい。
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
いや、もしかしたら。
生まれて初めてなのかもしれない。
「僕の……こと、ですか?」
「ああ。話したくないことまで無理に聞くつもりはない。だが、お前が話してくれるのなら、私は聞きたい」
リンデンの声は、いつになく穏やかだった。
逃げ道を塞ぐことも、答えを急かすこともない。
ただ、ルカの言葉を待っている。
その優しさが、かえってルカの胸を締めつけた。
「……僕は」
口を開いたものの、言葉が続かない。
何から話せばいいのだろう。
家族に認められなかったこと。
魔法が使えないと分かった日から、向けられる視線が変わったこと。
何をしても褒められず、何かを望むことさえ、いつしか諦めてしまったこと。
思い出そうとするだけで、胸の奥が冷たくなった。
「僕は、魔法が使えません」
「知っている」
「それで……家族に、必要ないと言われました」
ルカは、指輪をはめた左手を見つめた。
「エース家の人間なのに、魔法も使えない。そんな僕を置いておく意味はないって……」
声が少しずつ小さくなる。
「だから、僕は……誰かに大切にしてもらえるような人間じゃないんです」
その言葉を聞いた瞬間、リンデンの眉がわずかに寄った。
「誰が、そんなことを決めた」
「え……?」
「お前に価値がないと、誰が決めたのだと聞いている」
静かな声だった。
けれど、その奥には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
ルカは戸惑い、思わず顔を上げた。
「……家族が」
「ならば、私はその考えを認めない」
リンデンは、迷いなく言い切った。
「魔法が使えるかどうかで、人間の価値が決まるものか。お前が誰かに優しくできることも、仕事に真面目に取り組むことも、何かを大切に思えることも……そのすべてが、お前という人間を形作っている」
「殿下……」
「私は、お前が魔法を使えないからそばに置いているのではない」
リンデンは、ルカの手を包み込むように握った。
「ルカ。私は、お前だからそばにいてほしいのだ」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた気がした。
ずっと、欲しかった言葉だった。
誰かに必要だと言ってほしかった。
ここにいてもいいのだと、信じたかった。
けれど、いざ目の前で告げられると、どう受け止めればいいのか分からない。
「……どうして」
ルカの瞳に、涙が滲んだ。
「どうして、殿下は……僕なんかに、こんなに優しくしてくださるんですか」
「お前は、また自分を卑下する」
「だって……僕は、何も持っていないのに」
「私が欲しいものを、お前はもう持っている」
「それは……何ですか?」
リンデンは、すぐには答えなかった。
代わりに、ルカの頬にそっと手を伸ばした。
「お前自身だ」
ルカの瞳から、とうとう涙がこぼれ落ちた。
慌てて拭おうとした手を、リンデンが優しく止める。
「泣くことを、恥じる必要はない」
「……っ、すみません」
「謝るな」
リンデンは、ルカの涙を指先で拭った。
「お前がどれほどつらい思いをしてきたのか、私はすべてを知っているわけではない。だから、簡単に分かったつもりにはなりたくない」
その声は、どこまでも真摯だった。
「だが、これからは……少しずつでいい。私に教えてくれないか」
ルカは唇を震わせながら、小さく頷いた。
「……はい」
「約束だ」
リンデンが微かに目を細める。
その表情を見た瞬間、ルカの胸がまた、ぎゅっと締めつけられた。
冷徹な皇太子。
誰もがそう噂する人が、今、自分のためだけにこんな顔をしている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
そして、少しだけ怖かった。
こんなにも幸せだと思ってしまったら。
いつか失ったとき、自分はどうなってしまうのだろう。
「……殿下」
「何だ」
「僕は、まだ……どうしたらいいのか、分かりません」
「何がだ?」
「殿下に、こんなに優しくしていただいて……どうお返しすればいいのかも、どうしたら、この気持ちを伝えられるのかも……」
言いながら、ルカは顔を赤くした。
自分でも、何を伝えようとしているのか、はっきりとは分からない。
ただ、リンデンのそばにいたい。
もっと話したい。
その手に触れていたい。
そんな気持ちが、胸の中で少しずつ大きくなっていた。
リンデンは、そんなルカをじっと見つめた。
「返す必要などない」
「でも……」
「私がそうしたいから、お前を大切にしている。それだけだ」
そして、ほんの少しだけ声を落とした。
「……それとも、お前は私に大切にされることが、嫌か?」
「ち、違います!」
ルカは、思わず大きな声を出した。
「嫌なわけ、ありません……!」
言ってから、自分の声の大きさに気づき、耳まで赤くなる。
リンデンは一瞬目を見開き、それから、ほんのわずかに表情を和らげた。
「そうか」
「……はい」
「ならば、今はそれでいい」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。
握られた手は、まだ温かい。
ルカはその温もりを確かめるように、リンデンの指をそっと握り返した。
その小さな仕草に、リンデンの胸が強く打たれた。
これ以上、何を望めばいいのだろう。
そう思うほど、愛おしかった。
「ルカ」
「はい……?」
「ひとつ、聞いてもいいか」
「何でしょうか」
リンデンは、いつになく慎重に言葉を選んだ。
「……お前に、口づけをしてもいいだろうか」
「……え?」
ルカの思考が、ぴたりと止まった。
口づけ。
今、殿下は何とおっしゃったのだろう。
「い、今……何と……?」
「聞こえなかったのなら、もう一度言うが」
「き、聞こえました!」
慌てて答えるルカに、リンデンは少しだけ困ったような顔をした。
「ならば、返事を聞かせてくれ」
いつもの命令するような口調ではない。
返事を急かすこともなく、ただルカの答えを待っている。
ルカは、何度も唇を開きかけては閉じた。
心臓が、うるさいほどに鳴っている。
怖いわけではなかった。
むしろ、嬉しかった。
けれど、こんな自分が、皇太子殿下と口づけを交わしてもいいのだろうか。
そんな考えが、ほんの一瞬、頭をよぎった。
その迷いを見抜いたかのように、リンデンが静かに告げる。
「無理にとは言わない。嫌なら、断ってくれて構わない」
その言葉に、ルカは顔を上げた。
断ってもいい。
それでも、リンデンは自分を大切にしてくれる。
その事実が、何よりも嬉しかった。
「……嫌では、ありません」
小さな声だった。
けれど、リンデンには十分に伝わった。
「では……?」
ルカは頬を真っ赤に染めながら、そっと目を伏せた。
「……お願いします」
その瞬間、リンデンの瞳が揺れた。
どれほど平静を装おうとしても、胸の高鳴りを抑えることはできなかった。
彼はルカの頬に手を添え、逃げ道を塞がないよう、ゆっくりと顔を近づけた。
ルカもまた、目を閉じた。
そして。
二人の唇が、そっと重なった。
ほんの一瞬。
触れるだけの、優しい口づけだった。
けれど、ルカにとっては、何もかもが初めての経験だった。
離れたあとも、何が起きたのか分からないように、ただリンデンを見つめていた。
リンデンもまた、すぐには言葉を発しなかった。
やがて、彼はルカの額に自分の額をそっと寄せた。
「……すまない」
「えっ……?」
「もう少し、冷静でいるつもりだったのだが」
その言葉に、ルカは目を丸くした。
あのリンデンが。
誰に対しても冷静で、感情を表に出さない皇太子が。
自分の前で、そんなことを言うなんて。
「……殿下も、緊張なさるんですね」
思わず口にすると、リンデンは少しだけ目を細めた。
「お前は、私を何だと思っている」
「す、すみません……!」
「だから、謝るな」
リンデンは、ルカの手をもう一度握った。
左手の薬指には、あの指輪がある。
今度こそ、失わないように。
今度こそ、自分の気持ちを信じられるように。
ルカは、その手をそっと握り返した。
「……殿下」
「何だ」
「僕……今日のこと、忘れません」
リンデンは、静かに頷いた。
「私もだ」
そして、彼はルカの手の甲に、もう一度だけ口づけを落とした。
「覚えておけ、ルカ」
低く、優しい声が響く。
「お前はもう、ひとりではない」
その言葉に、ルカはまた泣きそうになった。
けれど今度は、悲しみからではなかった。
初めて、明日が来ることを楽しみに思えた。
この人のそばで。
この人と一緒に。
少しずつ、自分を好きになっていけるかもしれない。
そんな小さな希望が、胸の奥に灯っていた。
そしてリンデンもまた、ルカの手を握りながら、ひとつの決意を固めていた。
いつか必ず、この想いを言葉にしよう。
ただ大切な側近としてではなく。
ひとりの人間として、ひとりの相手として。
自分がどれほどルカを愛おしく思っているのかを。
――その日まで、もう少しだけ待っていてほしい。
リンデンは、指輪の輝くルカの左手を、決して離さなかった。
#とどひゅ
炭酸アレルギー
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す"き"です! ワ、ワァ何か私 神様の様な小説を読むと チラッ ___ッ!(画面伏)チラ みたいになるんですよ。 今それ
第8話、めちゃくちゃ良かったです……!リンデンが「お前はもうひとりじゃない」って言うシーンで、胸がじんわり熱くなりました。口づけの前の問いかけも、嫌なら断っていいって伝えるところも、彼の誠実さが滲んでて。そしてルカが初めて「明日を楽しみに思えた」心境の変化、本当に大事な一歩だなって。二人がゆっくり信頼を積み重ねていく過程に、こちらの心もほぐれていくようでした。続きが楽しみです🌷