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一度「主の残り香」という概念に脳を焼かれた者は強い。
いや、強くない。
むしろ終わっている。
主のベッドのど真ん中でクッションを抱きしめながら「吸う温泉」とかいう意味不明な概念を生み出して爆睡したノスフェラトゥは、その成功体験によって完全に味を占めていた。
そして今。
彼の探究心は、さらに危険な領域へと到達していた。
――クローゼットである。
朝。
FORSAKENの城は静かだった。
スペクターはいつものように目を覚まし、身支度のために私室の大きなクローゼットへ向かう。
赤いシルクハットを被る前の、少しラフな姿。
細い指が取っ手を掴む。
カチャリ。
観音開きの扉が開く。
ずらりと並ぶ高級衣装。
赤い外套。
黒いタキシード。
仕立ての良いシャツ。
そして――
そこから溢れ出す薔薇と煙草の香り。
その瞬間だった。
衣装の隙間から。
真っ赤な瞳が二つ。
ギラッ。
「…………」
「…………」
沈黙。
完全なる沈黙。
そこにはノスフェラトゥがいた。
体育座りで。
綺麗に。
ものすごく綺麗に。
スペクターの予備コート数枚を毛布代わりに巻き付けながら。
どう考えても不法侵入である。
しかも妙に収まりが良い。
サイズ感が腹立つほど完璧だった。
数秒。
二人は見つめ合った。
先に口を開いたのはノスフェラトゥだった。
「おはようございます、主様」
爽やかだった。
朝の挨拶だけ聞けば模範的だった。
「ご報告いたします。この空間は現在、主様成分が超高濃度で圧縮された極上環境となっております」
「……そうかい」
「肺に入る空気の全てが主様です」
「そうかい」
「私は今、世界で最も幸せな衣装タンスの住人です」
「そうかい」
スペクターは数秒考えた。
そして結論を出した。
「出ていきなさい」
即答だった。
「――ッ!!」
ノスフェラトゥが震える。
顔が一瞬で真っ赤になる。
「な、なんという……!」
違う。
感動する場面ではない。
「朝一番の完全拒絶……! 冷たい! あまりにも冷たい……!」
「うん」
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「最高です……!」
「よくないねえ」
ズサァァァッ!!
ノスフェラトゥはクローゼットから勢いよく飛び出し、そのまま床へ滑走。
綺麗な土下座を決めた。
綺麗すぎて逆に腹が立つ。
スペクターは額を押さえた。
「ノスフェラトゥ」
「はいっ!」
「君、私のコートに顔を埋めていたね?」
「はいっ!」
「ヨダレも垂らしたね?」
「多少!」
「多少じゃないんだよ」
実際かなりだった。
一部のコートが微妙に湿っていた。
「今日の服全部が君の匂いになるんだけど」
「光栄です!」
「私が光栄じゃないんだよ」
珍しく真顔のツッコミが飛ぶ。
だがノスフェラトゥには効かない。
もう手遅れだった。
スペクターは深々とため息を吐き、お気に入りの赤い外套を取り出す。
そして足元の大男の頭を靴先でコツンと小突いた。
「掃除してきなさい」
「あうぅっ!!」
たったそれだけだった。
それだけなのに。
ノスフェラトゥの脳内では祝砲が上がった。
巨大な尻尾(幻覚)が大暴れした。
世界が輝いた。
「承知いたしました主様!!」
次の瞬間にはモップを持っていた。
どこから出したのか誰も知らない。
本人もたぶん知らない。
シュババババババッ!!
猛烈な勢いで床掃除を始める。
さっきまでクローゼットに詰まっていた男とは思えない機動力だった。
スペクターはそんな姿を見送りながら、小さく呟く。
「その行動力を別の方向へ使えたら良いんだけどねえ……」
しかしその願いは届かない。
ノスフェラトゥは今日も幸せそうだった。
主のクローゼットから追い出されたという事実すら、
『主様に直接注意された』
というご褒美へ変換済みだからである。
重症だった。
かなり重症だった。