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その日、3限目の終わり頃。トイレの個室に、遥はうずくまっていた。
便座の蓋を下ろしたまま、背を丸め、深く息を吐いている。
何度も吐いた痕が、喉に焼きついていた。
声を出せない。泣くこともできない。ただ、胃の奥がひたすら熱く重く、空っぽのはずなのに、なにか濁ったものが込み上げてくる。
──《“教室の裏側”って知ってる?》
SNSのスクショ。画面の向こうで笑う誰か。
《最近の“ふたり”マジでやばい》
《なんか、普通じゃない》
《見てるだけで鳥肌立つ》
画像は、教室の一場面。
遥が俯いていて、そのすぐ隣で、日下部がこちらを見ている。
カメラの角度と照明の効果で、ふたりの距離が、異様に近く見えた。
──ただの並んだ席。それだけのはずなのに。
でも、それはもう「それだけ」ではなくなっていた。
《先生も見て見ぬふりらしい》
《他の子に近づかせない感じ》
《支配?主従?》
《つか、怖くね?》
言葉は加速する。嘘と解釈が混ざり合い、事実が削られていく。
誰が書いたのかも分からない。
誰が最初に笑ったのかも、もう、分からない。
でも──その“輪郭のない悪意”は、確実に遥の周囲を締めつけていた。
個室の外で、水が流れる音がした。
廊下では、次の授業に向かう生徒の足音。世界は何も変わらない。
遥は立ち上がる。
鏡の前に出て、自分の顔を見る。
真っ青な頬と、血の気のない唇。どこか他人の顔みたいだった。
教室に戻ると、すでに次の授業が始まっていた。
日下部は何も言わず、遥に一瞥をくれる。
それだけでいい。その“変わらなさ”が、逆に苦しかった。
(なんで……
おまえは、そんなふうにいられる?)
遥は俯いたまま、ノートを開く。視線を上げられない。
──誰かが、声を漏らす。
「また来たよ。ずっと隣じゃん」
「先生、あれ注意しないの?」
「……ほんと、変な関係」
ざわり、と。
音にならない空気が、周囲に立ち込める。
けれど──日下部はまったく動じない。
黒板を見つめたまま、ノートを取るふりすら自然だった。
遥は、拳を机の下で握りしめる。
(やめろ。……おまえが、黙って隣にいるほどに、
あいつらの言葉が、“事実”になる──)
怒りだった。それは、自分に向けた怒り。
日下部の優しさを受け入れられない自分、
それを“歪んだ感情”としてしか処理できない自分、
そして、何もできないまま、加害の連鎖に巻き込まれていく自分。
(全部……俺のせいだ)
その瞬間。
ページをめくる手が止まり、隣の机から、何かがスッと差し出された。
──日下部のノート。
そこに、短く書かれていた。
《今日の放課後、屋上》
それだけだった。
遥は反射的に顔を上げた。
日下部は、何も言わず、ただ黒板を見ている。
無理に微笑むことも、気休めの言葉もない。
ただ、遥の決断を、黙って待っていた。
──放課後。屋上。
誰もいない。校舎の影が長くのびる中、遥はひとり、階段をのぼる。
扉を開けると、そこに日下部がいた。
フェンスにもたれ、夕焼けの空を背にして立っていた。
遥が近づいても、日下部は振り返らない。
風の音が強くなる。
そして──ようやく、遥が口を開く。
「……なんで、隣に座り続けた」
しばらくの沈黙。
やがて、日下部がぽつりと答えた。
「──離れる理由がなかった」
遥は、何かを押し殺すように笑った。
「……バカだな、おまえ」
「うん。そうかも」
「もう、俺といるだけで、おまえも加害者だよ。……それでも?」
日下部は初めて、ゆっくりと振り返った。
その目は、まっすぐ遥を見ていた。
「それでも、だよ」
──遥の呼吸が、一瞬止まった。
胸の奥に、何かが沈む音がした。
(……壊れてしまえば、楽なのに。
でも、こいつのまっすぐだけは──壊せない)
遥は顔を背けた。
夕陽が瞼を刺していた。