風邪は治った。
一晩寝たらスッキリと。
夕べは心細くもなったけど、今思えば桃太郎なんかを頼った自分が情けない限りや。
商店街のドラッグストアに一応、葛根湯を買いに行った帰りのこと。
「ただいま~」
アパートの玄関に入ってギョッとした。
マフィアっぽいハゲたゴツイ男が、這いつくばって床を磨いていたのだ。
「カ、カメさん?」
「フシュー、フシューッ」
呼吸音がすごい。
額は血の気をなくし、爪の色はドス黒く変色している。
「きょ、今日はカメさん来る日ちゃうやん。どうした……カメさん? 目ぇ真っ赤やで。怖いで?」
「す、すみません。では見えないようにサングラスをかけます」
「アカンて。やめて! 怖さ3倍増しやわ!」
なんでも夕べからずっとこうしていたらしい。
廊下や物置、外壁を磨きまくっていたという。
ボロアパートの住人からすれば、ありがたい話なんやけど……。
「心を無にして掃除をするのです。心を無にして全てを清めるのです。そうすれば、いつか俺の心も清められます……」
ブツブツ言ってる。怖い!
「つ、疲れてるんちゃう? 片付けても片付けてもお姉がちらかすから。カメさん、このところ幾分ノイローゼ気味やったもん。不憫やわ」
ちょっと精神のバランスを崩してるとしか思えない。
でなきゃ、この人もいきなり出家(?)なんかせんやろ。
今日は帰って休み。ここにいたらアカン。
そう言ってカメさんを追い出す。
不安定でややこしい感じの人には、できるだけ傍にいてほしくない──それが本音や。
「ホンマに疲れるわ……」
このアパートにいたら、誰もがおかしくなるん違うか?
お姉もうらしまも、ワンちゃんも花阪Gも、オキナもかぐやちゃんも、とにかくみんな変やもん。
元凶がどこにあるか分からんけど、互いが互いに影響しあって究極の不毛ワールドを構築していってるに違いない。
「あ、オキナと言えば……」
アイツも体調を崩したと聞いた。
昨日の朝会った時には憎まれ口を利いていたけど、そういやちょっと声がおかしかったかな?
「もしかしてアタシが風邪伝染したかな? そんなことないよな。一切接触なかったもん」
まぁいいわ。ちょうど風邪薬を買いに行ったところだ。
オキナにも分けてやろうと、アタシは1─4へと向かう。
「この家来るの、ホンマはイヤやねん」
ほら、薄い扉越しにもう変な唸り声聞こえてくるし。
何せこの中に住んでるのは立派な変態やからな。
日常から何をしてるのかサッパリ分からん。
「オキナ? 入るで」
鍵は開いていた。
「キェェーーーッ! エェェーッ!」
壮絶な雄叫び。声が高いからこっちの耳にキンと響く。
「ギェエエェッーーーッ! フゲーッ! ゲゲーッ!」
の、喉、裂けるで?
アタシの注意なんて聞こえちゃいない。
奴はホゲホゲ怒鳴りながら、手にしていたスマホを叩き割った。
「ホゲーッ! ゲーーーッ……ゲゲーッ…………」
……落ち着いたみたいだ。
ようやくアタシに気付くと言い訳がましく喋りだした。
「あ、別に何てコトないんだよ? ただ、別れた女房が借金返せってうるさくて。もぅヤんなっちゃう。何とか払わなくてすむように工作してよぅ、リカちゃん」
別れた女房やて?
「イ、イヤや。アタシは何でも屋ちゃうし、特にそんな工作はしない。しかも、アンタの頼みやったら尚更や」
「ボク、婿養子だったんだ。小林って苗字だったんだよ。 ヤだな~。誰が小林少年だって?」
「はぁ?」
「小林少年……名探偵の助手の。えっ、今の子は知らないのか」
オキナは意味の分からない次元の話をしている。
「今の子とか言わんといて。元奥さんでも、借りたお金はちゃんと返さなアカンで」
「ええっ、リカちゃんがそんなこと言う!? お姉さんのアパートにタダで住んでおいて、小遣いまでせびっているリカちゃんが!」
「……て、的確にアタシの悪いとこ羅列せんといて」
それにしても、別れた女房やて?
コイツ、結婚してたんや。
ええっ、コイツでも結婚できたんや。
世の無常に打ちひしがれ、アタシは窓際の椅子に腰掛けた。
外は竹やぶ。風に揺れてサラサラと音を立てている。
「アッ、今の話、かぐやちゃんにはナ・イ・ショね」
奴は唇の前に人差し指を立ててウインクした。かなりムカツク仕草だ。
「借金って言ってもそんなにないんだよ。あぁ、何とか踏み倒せたらいいのにねっ。お互いにねっ」
「可愛く言われても、その意見にはアタシは同意できんわ」
「興奮してスマホ壊れちゃうし。参っちゃう」
無残な姿のスマホを眺めて、オキナは変な声をあげた。
「アッ! 今アクビしたら、喉の奥からすごい量のヨダレがピュッと飛び出てきちゃった」
「ヨダレ?」
コイツも大概マイペースなやつだ。
未練がましく液晶を拭いている。
「汚いナァ。乙女にそんな話せんといて」
「? 乙女って……」
ハッハッ……すごい低い声でゆっくり笑った。
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