テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
昨夜の出来事は、すべて質の悪い夢だったのではないか。
そう思ったが、重い瞼を押し上げると
視界に飛び込んできたのは蔵の煤けた天井ではなく
見事な彫刻が施された高い天井と、そこから下がる豪奢な水晶のシャンデリアだった。
身体を包み込んでいるのは、湿った薄い布団ではない。
絹のようになめらかな敷布と、羽毛のたっぷり詰まった柔らかな寝具だ。
窓からは春の柔らかな日差しが差し込み、埃ひとつない室内を黄金色に染め上げている。
「……夢じゃ、なかったんだ」
指先でそっと自分の唇に触れる。
昨夜、久遠様に抱き寄せられた瞬間の、あの暴力的なまでの熱い体温。
「俺のすべてがお前のものだ」という、魂の底を揺さぶるような低い声。
思い出すだけで、心臓が耳の奥でうるさいほど跳ね上がった。
自分を「無能」と定義し、感情を殺して生きてきた十年間が
たった一晩で瓦解していくような、恐ろしささえ孕んだ幸福感。
不意に、部屋の扉が音もなく静かに開いた。
「お目覚めですか、奥様」
入ってきたのは、揃いの家政服に身を包んだ数人の女中たちだった。
彼女たちは私の姿を見るなり、一斉に深く、迷いのない敬意を込めて頭を下げた。
「これからは私共が、千代様のお身の回りのお世話をさせていただきます。まずは、こちらへ。……旦那様がお待ちです」
促されるままに向かったのは、三面鏡が置かれた広い着替えの間だった。
扉を開けた瞬間、私はその光景に息を呑んだ。
そこには、見たこともないほど鮮やかな友禅の振袖や、繊細なレースが贅沢にあしらわれた洋装
そして真珠や宝石を嵌め込んだ髪飾りが、溢れんばかりに並べられていたのだ。
「……これ、は?」
「すべて、旦那様が千代様のためにと、昨晩のうちに馴染みの店から揃えさせたものにございます」
五條の家では、異母妹の美夜が着古し、泥や汚れの目立つ着物しか与えられてこなかった。
そんな私にとって、目の前の光景はまるでお伽話の挿絵のようで、手を触れることさえ躊躇われた。
「千代様、こちらなどいかがでしょう」
女中たちの手によって、淡い桃色の絹地に白い桜が精緻に刺繍された着物を選んでもらう。
髪を丁寧に結い上げられ、鏡の中に映し出されたのは、まるで見知らぬ貴婦人のような少女だった。
あまりの変貌ぶりに、気恥ずかしさと居心地の悪さで、私は思わず俯いてしまう。
「──よく似合っている」
背後から響いた凛とした声に、肩がびくりと跳ねた。
振り返ると、そこには軍服を隙なく着こなした久遠様が立っていた。
昨夜の着流し姿も凄絶だったが、黒い軍服に黄金の飾緒を垂らした姿は
正に帝都を護る「軍神」そのものの威厳を放っている。
「あ…く、久遠様……」
「昨夜はよく眠れたか?」
彼は迷いのない、堂々とした足取りで私に近づくと、当然のような仕草で私の腰を抱き寄せた。
あまりの距離の近さに、頭が真っ白になる。
軍服の真鍮ボタンが私の着物に触れ、ひんやりとした感覚が伝わる。
けれど、それを上書きするように、彼の掌から熱い体温が染み込んできた。
「そんなに震えなくていい。……まだ、俺が怖いか?」
「いっいえ、その…あまりに綺麗なお部屋と、お着物で…私のような出来損ないには、勿体なくて……」
つい、長年の習慣で自虐的な言葉が漏れる。
自分を卑下することでしか、五條の家では平穏を保てなかったからだ。
すると、久遠様の眉が微かに、けれど鋭く寄った。
彼は私の顎をそっと指先ですくい上げ、逃がさないようにじっと見つめてくる。
「千代。二度とその言葉を使うなと言ったはずだ。お前は今日から、この久遠家の主母なのだから…俺が選んだ女を、誰が勿体ないなどと言う」
「ですが、私は異能も持たず、実家からも見捨てられた身で……」
「異能など、俺が持っていれば十分だ。お前はただ、そこにいて笑っていればいい。それだけで俺の呪いは鎮まる」
久遠様はそう告げると、私の額に
羽が触れるような慈しみに満ちた口づけを落とした。
「ひゃ……っ」
触れられた場所が熱を持ち、思考がとろけていく。
「さあ、朝餉にしよう。お前のために、料理長に特製のものを作らせた」
連れて行かれた食堂には、目を疑うような光景が広がっていた。
立ち上るお出汁の香りが豊かな味噌汁。
脂の乗った焼き魚。
ふっくらと炊き上がった真っ白な米。
蔵で冷え固まった残り物や、雑炊とも呼べないような汁物しか食べてこなかった私には
眩しすぎて毒になりそうな御馳走だった。
「食べてみろ。……それとも、俺に食べさせてほしいか?」
「い、いえ! 自分で、自分でいただけますっ」
慌てて箸を取る私を眺め、久遠様がふっと、本当に微かに口角を上げた。
戦場を駆ける「人斬り伯爵」が
こんなにも柔らかく、愛おしげに微笑むなど、誰が信じられるだろうか。
けれど、食事が済んで彼が箸を置いた瞬間
その琥珀色の瞳に一瞬だけ鋭い「影」が走ったのを私は見逃さなかった。
それは、彼が背負う呪いなのか、あるいは何か別の不穏な気配なのか。
「千代。支度が済んだら、少し出かける。……帝都の街を、案内してやろう」
それは、甘やかな新婚生活の始まりであると同時に
私が自分の「本当の価値」と、私の中に眠る光を知るための、最初の第一歩でもあったのだ。
#溺愛