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#王子
明治・大正の帝都は、どこまでも鮮やかな春の陽光に包まれていた。
久遠様に連れられて屋敷を出た私は、馬車の窓から流れる景色に、ただただ目を奪われていた。
煉瓦造りの瀟洒な建物
火花を散らして走る路面電車
そして色とりどりの着物や最新の洋装で行き交う人々。
十年間、窓のない蔵の中に閉じ込められていた私にとって
それは眩しすぎるほどに美しく、残酷なほどに自由な別世界だった。
「……そんなに珍しいか?千代」
隣に座る久遠様が、私の横顔を覗き込むようにして問いかけてきた。
その声は低く、けれど柔らかな響きを含んでいる。
「はい。……外の世界をこんなに近くで見るのは、生まれて初めてです。すべてが、まるで動く錦絵のようで……」
「そうか。これからは好きなだけ見せてやる。行きたい場所があれば、どこへでも連れて行こう」
久遠様の言葉は、いつも驚くほど真っ直ぐで、冷え切っていた私の心の奥底に深く、熱く刺さる。
馬車が止まったのは、銀座の大きな呉服店や小間物屋が軒を連ねる、帝都で最も華やかな通りだった。
「今日は、お前に贈りたいものがあるんだ」
「え、私に…ですか……?」
そう言って彼が差し出した掌に、私は恐る恐る自分の手を重ねた。
革手袋越しに伝わる、骨太で力強い指の感触。
引き寄せられるようにして馬車を降りると、街ゆく人々が一斉に足を止めた。
軍服姿の凛々しい軍神と、その隣を歩く正体不明の娘。
「見て、あの方……久遠伯爵じゃないかしら」
「お隣の令嬢はどなた? 噂の花嫁様かしら。なんて可愛らしいお姿……」
ひそひそと囁かれる賞賛の声に、私は思わず俯いた。
「可愛い」なんて、これまでの人生で一度たりとも言われたことのない言葉だ。
鏡を見ることも許されず、ただ汚れた身代わりとして扱われてきた私には
その評価を受け止める器がまだ備わっていない。
立ち寄ったのは、繊細な装飾が施された、ガラス張りの美しい小間物屋だった。
店主が最敬礼で迎える中
久遠様は迷いのない手つきで、陳列棚から一つのかんざしを手に取った。
「これがいいな」
それは、淡い桜色の真珠が中央にあしらわれた、銀細工のかんざしだった。
光を反射して、まるで夜桜が月光に照らされているかのように、幻想的な輝きを放っている。
「久遠様、こんなに高価なもの……私のようなものには勿体なすぎます」
「はあ、仕方ないな……千代、こっちを向け」
彼は私の返事も待たず、軍人らしい大きな
けれど驚くほど繊細な手つきで、そっと私の髪にかんざしを挿した。
その際、彼の指先が私の耳たぶに微かに触れる。
熱い痺れが全身に走り、指先までが自分のものじゃないように熱くなった。
「……よく似合っている。やはり、俺の見立てに間違いはなかった。この輝きは、お前のためのものだ」
久遠様は満足げに頷くと、不意に私の耳元に唇を寄せた。
「本当は、外になど出したくないのだ。こんなに美しいお前を、他の男たちの目に晒したくない。……俺だけの蔵に、もう一度閉じ込めておけたらとさえ思う」
「えっ……」
あまりに苛烈で、情熱的な独占欲。
顔が林檎のように赤くなるのが、自分でも痛いほどわかった。
けれど、幸せな高揚感に包まれていたその時だった。
背後を通り過ぎた男の影から、不気味で刺すような冷たい風が吹き抜けた。
「───っ!?」
私は咄嗟に久遠様の逞しい腕を掴んだ。
今、何かがいた。
どす黒い、泥のような嫌な影が、一瞬だけ網膜に焼き付いた。
「千代? どうした、顔色が悪いぞ。人酔いでもしたか?」
心配そうに私を見つめる久遠様。
だが、彼の視界には入っていない。
彼の背後、街のガス灯が作り出す暗い影に紛れるようにして
得体の知れない「黒い霧」が、鎌首をもたげる蛇のように蠢いているのだ。
それは、五條の家では決して感じることのなかった
おぞましく、怨念に満ちた「呪い」の気配だった。
そして、その霧が明確に狙っているのは、目の前の──
「久遠様、危ない……!」
思考より先に体が動いた。
無意識に叫び、彼を庇おうと伸ばした私の掌から、眩いばかりの真っ白な光が溢れ出した。
それは、無能と呼ばれ、何も持たないと蔑まれてきた私が
初めて世界に放った異能の産声だった。