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八百万堂の朝は、相変わらず騒がしい。
「お小夜、昨日の茶碗の洗い方が甘いぞ!」
「あーあ、隣の長屋の猫がまた軒下で粗相していきおった」
棚に並ぶ古道具たちが口々に朝の挨拶(という名の文句)を垂れる中、私は慣れた手つきでハタキを振るっていた。
その視線の先、店の土間に置かれた縁台に、場違いなほど美しい男が腰掛けている。
居候になって三日目。
瑞樹さんは、私が渡した古い着流しを驚くほど着こなし
ただじっと表を流れる江戸の往来を眺めていた。
「瑞樹さん、退屈じゃありませんか?」
「いや……面白いものだ。人はこれほどまでに、せわしなく、それでいて楽しげに動くものなのだな」
彼は翡翠のような瞳を細め、ふっと微笑んだ。
まるで神視点のような言い分と
その横顔があまりに浮世離れしていて、私は思わずハタキを止めて見惚れてしまう。
「おい、そこの二人、喋ってる暇があったら仕事しろ!」
お父さんの怒鳴り声に飛び上がったとき
店の暖簾を潜って、馴染みの岡っ引きの源さんが飛び込んできた。
「大変だ、小夜ちゃん!大変なんだよ!」
「ちょ、ちょっと源さん落ち着いて!一体なにがあったの?」
「また出たんだよ、『踊る提灯』が!」
「…!」
ここ数日、神田界隈の夜道を火の消えた古い提灯がふわふわと彷徨い歩くという噂が広まっていた。
悪さをするわけではないが
その提灯に出くわすと、どうしようもなく悲しい気分になり、一晩中涙が止まらなくなるという。
その日の夜
私は、源さんに頼まれて夜回りに同行することになった。
瑞希さんも連れて。
「瑞樹さん、本当に大丈夫ですか?用心棒の初仕事になりますけど……」
「案ずるな。お前の耳が何かを聞くなら、俺はそれを手がかりにする」
瑞樹さんは提灯を持たず、暗闇の中を事も無げに歩く。
彼の周囲だけは、夜の闇さえもどこか澄んで見えるから不思議だ。
路地の奥、古びた蔵の影から、それは現れた。
薄汚れて破れかけた、一つの小田原提灯。
火は灯っていないはずなのに、中から青白い
今にも消えそうな光が漏れている。
「……出た!」
源さんが悲鳴を上げて腰を抜かす。提灯は力なく宙を泳ぎ、こちらへ近づいてきた。
その瞬間
私の耳に、胸を締め付けるような嗚咽が流れ込んできた。
(……ごめんなさい、旦那様……。あっしが、あっしがもっと早く火に気づいていれば……)
それは、提灯の宿す「声」だった。
視界が歪む。
提灯から溢れ出した強烈な哀しみの念が、波のように私を飲み込もうとする。
あまりの辛さに、私も膝をつきそうになった。
「さよ!」
瑞樹さんの手が、私の肩を支える。
ひんやりとした彼の体温が触れた瞬間、意識が鮮明になった。
「この提灯は……怒っているんじゃない。ただ、泣いているんです」
私は震える声で伝えた。
「去年の大火で、主を救えなかったことをずっと悔やんでいる…暗い火事の夜、主を探して、今も彷徨っているんだわ……」
提灯は、お小夜の言葉に反応するように、激しく上下に揺れた。
破れた紙の間から、涙のような油が滴り落ちる。
(熱い…熱い……旦那様…どこにいるんですか……)
その叫びは、もはや執着を通り越して
自分を焼き尽くす「焦燥」に変わっていた。
提灯の周りの温度が、じりじりと上がり始める。
このままでは未練が火に変わり、また新たな災いを呼んでしまう。
「瑞樹さん、お願い!この子の心を冷ましてあげて!」
瑞樹さんは静かに一歩前へ出た。
彼は刀を抜く代わりに、天を仰いで、そっと指先を鳴らした。
「───熱かろう。もう、探さなくていい。主は、お前の照らした道を誇りに思っているはずだ」
彼の言葉と共に、晴れていた夜空に、一筋の雨が降り注いだ。
それは江戸の町を濡らす夕立ではなく、その場所だけに降る、真珠のように輝く優しい雨。
雨粒が提灯に触れるたび、チリチリと燻っていた熱い念が、穏やかに静まっていく。
瑞樹さんの降らせる雨は、ただの「水」ではなかった。
それは、荒ぶる感情を洗い流し、安らぎを与える「慈雨」だったのだ。
やがて、提灯の震えが止まった。
青白い光は、暖かな橙色へと色を変え
最後に私に向かって一度だけ小さく頭を下げた。
すとん、と。
役目を終えた提灯は、ただの煤けた古い道具に戻り、瑞樹さんの足元に落ちた。
「……終わったのか?」
源さんが恐る恐る顔を上げる。
「ええ。もう、誰も泣かなくて大丈夫みたいです」
瑞樹さんは、雨に濡れることのないまま、落ちた提灯を優しく拾い上げた。
「さよ…道具も人も、想いが深すぎれば毒になるのだな」
「そうですね。でも、瑞樹さんの雨があれば、きっとまた前を向けるはずです」
瑞樹さんは少しだけ意外そうに目を見開き、それから、いたずらっぽく笑った。
「……そうか。ならば、俺のこの力も、悪くないものだ」
雨上がりの月が、瑞樹さんの美しい顔を照らしている。
江戸の夜は、まだ始まったばかり。
物の声と、水神様の雨。
私たちの仕事は、これからもっと忙しくなりそうだった。