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「大丈夫。君の命は僕が守る。だから、今は楽しく過ごしてくれることを願っている」
その人は言い終えたのが、近くに気配を感じなくなっていた。
顔を上げられないまま、何も分からないまま。
僕は学園にたどり着いていたようだ。
僕の車椅子が誰の手に渡ったか分からない。
けれど、全身を揺らす振動は変わらず続いている。
誰かが僕を押し続けているようだ。
振り向くことは出来ない。
僕は、折れたように俯いた首を上げることすらままならない。
身体中痛みを帯びているようで、力が入らない。
今の僕には脱力しか出来なかった。
エメラルドの瞳を僅かに開いたまま。
視界は学園に着いたようだった。
起きては眠っての途切れ途切れの意識の中、
コンクリートの地面から木の床に変わっている。
隅には人影と靴が映り始めている。
どうやら、人が多い教室内に来たのは確かなようだ。
けれど、俯いていては何も分からないまま。
でも、今の僕は
そんな事すらどうでも良かった。
どこに連れていかれようが、
これからどんな目に合うのか。
知ったところで何も変わらない。
あの人は僕と縁を切ったんだ。
それだけは揺るがない事実であった。
いや、これでは聞こえがいいかもしれない。
僕を殺そうとしたんだ。
オキザリスの花で一時的な信用を買った。
それで僕は騙され、背を向けてしまっていた。
だから、そのまま落とされたんだ。
僕は…。
あの人に…。
そこまで自己完結に遡っては、思考が止まる。
その先を考える必要がないのだ。
未来を見ようという気にならないのだ。
僕はそこで、潰える命だったから…。
「ねえ、ほら早く持って」
それはあまりにハッキリと聞こえた。
声の方向に僅かに視界をずらすと、
背後の人間が鞄を差し出していた。
「それは…誰の僕のものですか」
問いかけは声にならなかった。
「はい、置いておくからね」
声の主は僕の太ももに黒い鞄を置いたようだ。
「後で、中身確認しておいて。その…手紙!手紙を入れたからさ」
僕が鞄の方へ首を動かす頃には、彼女は僕を押したまま歩き出していた。
首が上手く動かない。
いや、それは首だけではなかった。
身体は石のように固まり、動かすのに一苦労だった。
彼女が置いたのは、僕の学園で使っているらしき鞄。
それの小さなポケット側のチャックが、
少しばかり空きっぱなしになっていた。
僕は、その隙間を穴が空くほど見つめる。
中には封筒の端が顔を覗かせている。
見てみようかな…。
そう思うのにどれくらいの時間が経ったのか。
気持ちと反して動かない身体。
僕は半ば諦める思いでそれを見送った。
彼女が僕に話しかけていたからだ。
「ねえ、貴方の診断が終わったら学園祭、一緒に回ろうよ」
気付けば、彼女の声がしんと静まり返った空間に響いていた。
視界の景色は、病院館内になっている。
「診察ってどういう事ですか?」
僕は勢い任せに首を真上に引き上げる。
それでも首は、目の前に立つ彼女の胸元までしか上がらなかった。
「ちょっと、変なとこ見ないでよ。言いたいことがあるようだけど、それじゃ分からないよ」
僕の言葉は相変わらず、声になっていないようだった。
「あ、目逸らしたね。そういうのは分かりやすいんだ」
「そんなつもりはないのですが…?」
口を動かしても空気を吸っているばかりのようで、
話すという行為の果てを感じる。
話す事さえ無力な僕には難しい事だと。
僕は自分自身に項垂れてしまう。
「大丈夫だよ、この診察で貴方の病気とかその原因とか。きっと、分かるはずだよ」
視界の外で投げかけられる言葉は、優しいものだった。
けれど、その優しさに覚えがあった。
だからこそ、その言葉を聞いてしまうのは良くないと。
自分を律する僕がいる。
「病気でも何でもいいよ。独りじゃないだけ良いでしょ。私も貴方も…」
それを言う声色は寂しげだった。
彼女の表情を見たいと思った。
けれど、僕は一瞬にしてそれは孤独に塗り替えられる。
また背中を押されたような感覚になる。
「…っ」
足元に道は無い。
下から吹き上げる風が僕をさらおうとする。
ゆっくりと視界が闇に落ちていく。
建物の間の深淵に落とされるように。
手を伸ばして、それに抗おうとしても空を舞うだけで。
また落とされたんだ。
この一瞬のうちに。
僕はまたプツリと電源が切れてしまったように、
意識を失ってしまった。
「クインテッドは、失声失歩という病気だよ」
そう耳元で聞こえた気がした。
重たいまぶたを微力ながらに持ち上げる。
それはすぐに落ちてしまいそうだった。
「それはどういう病気なんですか?」
横たわる僕の傍で彼女が尋ねる。
「それは…君が知っている通りさ」
「私が…ですか?」
「そうだ、彼を見てて分かることがあるだろ。
すごく明白に、分かりやすい」
彼女の前に座る白衣を着たような男性は、医者だろうか。
ぼやけた視界の輪郭がハッキリと縁取られることはなかった。
「失ったものは取り返せない。ただ、なにも理由がないわけではないはずだ」
言葉だけは一字一句聞き取れていた。
「この病気は治るんですか…?」
彼女の問いに僕は少しばかり気になったが、
僕はそもそも病気では無いと思った。
この心の苦しみを病気と引き換えに出来たら、
なんて単純なものだろうか。
人を失った悲しみを忘れ、なくなったとしても
彼が戻ると誰が信じれるのだろう。
「彼に会わせるといい。結局のところ、心であれば当人同士の解決がいい」
巡る思考で答えを聴き逃してしまったようだ。
けれど、何も思わない。
「といっても…それを彼には話さないのですか?」
彼女がこちらを向く気がした。
僕はすぐさま、開いていた目を伏せる。
その瞬間、とてつもない睡魔が襲って来たのか
意識が遠ざかっていくようだった。
「そ…きみ…ってやる…い」
言葉の節々が遮られたようで聞こえない。
僕は水面に顔を埋めるような感覚になっていく。
「…ってい…すね」
もう言葉は聞き取れない。
全てが閉鎖され、何も音が聞こえなくなる。
あぁ、僕は眠ってしまったようだ。
深い深い海の底へ沈んでいくように。
光の当たらない暗闇が心地良い。
心と溶け合うようなその温もりに、
意識はどんどんと染められていった。