あぁ、僕は眠ってしまったようだ。
深い深い海の底へ沈んでいくように。
光の当たらない暗闇が心地良い。
心と溶け合うようなその温もりに、
意識はどんどんと染められていった。
「クインテッドは、失声失歩という病気だよ」
彼を診断してくれた医者は告げる。
「それはどういう病気なんですか?」
失声、失歩。
聞くだけで力が奪われるような響きだった。
「それは…君が知っている通りさ」
「私が…ですか?」
医者は私の心へ直接問いかけるようだった。
「そうだ、彼を見てて分かることがあるだろ。
すごく明白に、分かりやすい」
彼をみて思うこと。
それは、身体中が不自由そうだということ。
車椅子という出会いもそうであったし、
階段の時、言葉が出せないような苦しさ。
それを不自由そうだと感じたのは嘘ではなかった。
「失ったものは取り返せない。ただ、なにも理由がないわけではないはずだ」
医者は呟くように背を向けながら、
デスク下の引き出しを乱雑に開けたり戻したり
忙しなく言う。
「この病気は治るんですか…?」
医者にはちゃんと教えて欲しかった。
改まって尋ねた私の声に、
思い出したかのように急いで座り直す医者。
途端、私を見た医者はなぜか崩した姿勢になる。
「彼に会わせるといい。結局のところ、心であれば当人同士の解決がいい」
目の前の医者は淡々と言い放つ。
先程よりも声色は低くなっていた。
解決と言いながらも、その先に関与しようとしない一線を感じる。
「といっても…それを彼には話さないのですか?」
寝台に横たわる彼を見る。
未だ伏せられている瞼。
その下に眠るエメラルドの瞳に、
次はいつ出会えるのだろうか。
「そうだ。きみがやってやるといい」
指示を出して投げやりなのか、
医者は机上にあるパソコンにデータを打ち込み始める。
「彼のお兄さんを合わせることですね」
「あぁ」
医者は指一つ止めやしない。
私の言葉を受け流し、適当にあしらっているようだった。
急な態度の変わりように私は
「そのお兄さんの場所が分かれば苦労しないんですけどね」
嫌味ったらしく言ってやった。
「ならば、先生にでも聞いてみればいい。もしくは住所や血縁関係なら市役所にでも行けば分かること。
その先はいくらでも辿る術がある」
そういう具体的な解決策じゃなく…。
私は心で独り呟く。
「でも、そのお兄さんが彼の病気を治せるのはどうしてです?」
医者は私の言葉に被せるようにため息をつく。
「なんですか、説明してないですよね?」
男性は医者なはずなのに、態度が横柄極まりなかった。
嫌々を出しながら言葉を吐く。
「彼は家族関係で揉めていたと兄から聞いている。心の病気ならば尚更関係しかないだろう」
「えっ、今お兄さんから聞いたって…この病院にお兄さんが来たって事じゃないですか」
平然と嘘をつく医者。
もう闇医者と呼ぶべきだろうか。
「私は嘘などついていないぞ」
医者は私の心を読むように言う。
「この病院は学院の病者リストを先に貰っているだけだ。兄から聞いたといはいえ、それだけで名前と血縁関係が分かるわけが無い」
いや、そんな事を一般の生徒が知るわけがない。
分かるわけがないと言われても、知らないのよ。
「それで、彼の病気が治るんですよね?」
知るも知らないもどうでも良かった。
ただ、同じ病を患う身として彼を見過ごせなかった。
私は、医者の言葉を信じる事が出来ない。
人一人と会わせたくらいで、精神病が治るはずがないと。
もちろん、私には治ると思える相手がいないというのもあるけれど。
そんな相手が彼にはいるということだろうか。
クインテッドは仰向けのまま、眠り続けている。
その表情からは何も伺えない。
私だけがそうなのだろうか。
医者はそんな私に、きっぱりと言い放つ。
「君は部外者だ。会わせる以上のことはしなくていい」
私はそれきり口を閉ざしてしまった。
言葉を発して言い訳になるのが嫌なだけだった。
それか、ほんのちょっと言い負かされたようで、悔しかっただけ。
部外者と言われて何も言い返せないわけじゃ、
ないから…。
気付けば夜になっていた。
そして
そう思っていたら、いつの間にか日記に書き留める自分がいた。
あぁ、また言えなかったから文に綴っちゃった。
悪い癖だと直そうと思っておきながら、また無意識に。
背徳感が私を占めた夜だった。
「それで、結局あなたはいつ起きてくれるの?」
もう何度目か問い 続けていた。
私は彼の部屋の前に立っていた。
中から数回私の呼びかけに反応するような声は聞こえる。
けれど、扉には鍵がかかったまま。
「今日は学園祭の日だって言ったよね?まさか寝坊とかじゃないよね」
途端、物が落ちるような音と共に壁にぶつかるような鈍い振動。
ペンとか本とか書類諸々を連想させる音が全て、なだれ落ちる。
「ちょっと、大丈夫?慌てる必要は無いよ?」
まだ一限目の授業の鐘すら鳴っていない。
あと五分もしないうちにそれは始まるが、
学園祭当日は丸一日自由時間のようなものだ。
多少すぎても構わないけれど、やっぱり楽しみは長い方がいい。
そんな気持ちが再びノックをさせる。
二つ目の音が鳴る前に、彼は扉を開ける。
「うわ、びっくりした。おはよ」
扉を開けた時に力でも使ったのか、だらんと垂れ下がる腕。
首はいつものように項垂れてはいなかった。
けれど相変わらず、虚空を見つめそこには私が映っているような気はしない。
彼は口を僅かに動かしていた。
今は彼のそれが、失声だという事が分かる。
「あなたも行きたかったって?」
私は冗談めかして言う。
彼は何も言わない。
冗談に笑うこともない。
でも、別に良かった。
「さ、早く行こ。一緒に食べ歩きなら出来るでしょ!」
ささっと車椅子の背後に回り、ハンドルを握る。
声は出せなくても楽しみを共有することは誰でも出来る。
「…とお…」
彼は突然、思い出したように話し出した。
かすれた声は何かを伝えようとしている。
「いつ…ていて…」
息が上がっているようで苦しそう。
けれど、それ以上に聞いて欲しいことがあるみたいで。
「いい…って、ばく…と」
「ばく?」
ばくってなんだろう。
彼は言い終えてしまったのか、それきり俯いてしまう。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!